永井直勝は緒川の生まれか育ちか

永井直勝は緒川の生まれか?

 

一 了願寺の永井家の墓

 

 東浦町緒川の了願寺には「永井家」の墓が墓地の中心部に並んでいます。その数、三十数基も並んでいます。この墓地の一番中心部にある目立った墓です。その永井家は緒川在住の永井さんではなく、名古屋市の南区鳴尾町に住む永井一族の本家だけの墓で、元「愛知郡荒井村」と呼ばれたところの豪農だった家の墓なのです。この墓の中には、「胗斉(しんさい)先生」と呼ばれた尾張藩の有名な儒学者「永井松右衛門匡遄(号は星渚)の墓もあります。先生は門弟が数百人もいる名古屋城下で名の売れた儒学者でした。なぜ、愛知郡の豪農の墓が緒川の了願寺にあるのでしょうか。

 

二 男墓と女墓

 

 広辞苑などを調べても出てきません。世の中では通用しないその家だけの特別な決まりなのでしょうか。あるいは皇族や公家・学者などにこのような風習が残っているのでしょうか。

 緒川の了願寺にある永井家の墓は「男墓(本墓)」と呼ばれています。「女墓(脇墓)」は、本家のある名古屋市南区鳴尾町の西来寺にあります。

 男墓と言っても、男系だけでなくその家の当主とその当主より後で亡くなった本妻の2人を葬るためのお墓です。2人も一つの墓でなく、墓石は別々に二つですから、三十数基あれば、十数代のお墓であることが分かります。女墓とは、夫より早くに亡くなった妻や、独立できずに早世した子供たちのお墓です。

 儒教の教えでは、妻は夫の面倒を見て、夫を極楽へ送ってから、やもめとして暮らしその後に同じ墓所に葬られるものです。妻が先だってしまえば、夫は後添えをもらってその妻と同じ墓所に葬られるのでしょう。

 これが永井家の「家訓」だったようです。それにしても、男墓(本墓)が緒川にあるという事は何を意味しているのでしょうか。逆に女墓(脇墓)が遠く離れた緒川にあるならまだ納得が行きますが。思うに、この永井家の始祖が緒川にいたた事を忘れないようにとの証しなのでしょうか。

 

三 永井直勝とは

 

 了願寺の本田眞哉氏の法話によりますと、

永井直勝は従来碧南市(大浜村)の出身と言われてきました。大浜には愛知県の石碑「永井直勝生誕の地」が建っています。

東京在住の東永井氏の勝三氏が1962(昭和三十七)年に調べた結果によると、

 1800(寛政十二)年三月十一日に尾張藩士の稲葉喜蔵は藩命によって了願寺を尋ねられ、住職9世の恵慶と面談して、

 緒川の民家の系図をことごとく調査して、了願寺須弥壇に保管してある過去帳により、(緒川村に住んでいた)当寺の檀徒である永井伝四郎の同胞の弟が(※分かりにくい表現)永井伝八郎大江直勝であることが分かった。と記録してありました。

 同胞とは、もとの意味は「同じ母から生まれた兄弟」であり、そのまた弟なら、回りくどく言わなくても「伝四郎の弟」ですみそうだが?

 またその1800年の記録では、

 永井直勝は緒川村に生まれ、幼くして親を失い親戚の大浜港の羽城城主の長田直吉に養育された。14歳にして岡崎の家康の長男の信康に使えたが、信康が自害(信長の命により家康が自害させた)したために、岡崎城の職を辞めて帰宅しました。

 1579(天正七)年に義妹の嫁入り先であった、緒川の沢田孫八郎(緒川・刈谷城主であった水野信元の重要な家臣上田無甚斎とも言う:後の本陣沢田仁右衛門)宅に寄寓しました。翌年(1580)に東端城(現安城市)の城代となれた。そこで、寺津(現西尾市)城主であった大河内秀綱の二女「由利姫」を妻とする。この年に信元が殺されたので家康の近侍となる。

 1582(天正十)年正月に長子の伝太郎正直が生まれる。1584(天正十二)年小牧長久手の戦いが始まり、家康に従って出陣する。四月九日の長久手の戦いで、敵将の池田勝入信輝の首を取り、大活躍をする。以後活躍が続き、順に出世して従五位右近大夫に任じられ古河(こが:現茨城県)城主7万2千石を領する大名となる。跡は正直の腹違いの弟の尚政がとり、さらに、異母弟の直清は高槻城主と成り3万6千石の大名となる。直勝は1625(寛永二)年に逝去して、古河の永井寺に葬られました。当時としては、まだ長子相続とはかきらず、武勇優れた者が跡を継ぎました。

 

四 尾張大江永井家の始祖正直

 

 鳴尾町の豪農の永井家の初代は永井正直(伝太郎)といい、了願寺の墓地の中央部に、夫「潮岸院釈良善」妻「清月院釈妙善」と刻まれた墓碑があります。夫は1658(万治二)年十一月十八日、妻は1676(延宝四)年五月二六日に亡くなっています。

 永井直勝の長子に生まれましたが、三歳の時1584(天正十二)年、直勝が小牧長久手の戦いに参陣していた時に、母の由利姫が病死しました。そこで、正直の養育は家臣にまかされ、星崎の地(現名古屋市南区)の家臣の家で成長しました。

 正直は長じて、武士にはならずに、星崎の庄の荒井村に一家を構えました。正式の名を永井久右衛門大江正直としました。農業を営むかたわらで、塩の製造販売にはげみました。今の星崎は内陸部ですが、当時はまだ海岸に面した年市潟といわれる入江で塩の生産に適した土地で、豪農兼豪商となりました。

 そして、墓地は父直勝の生誕の地を本願地として、「男墓」を作り、末代まで本願地を忘れないようにしているのです。

 

五 大江永井家の子孫

 

 南区鳴尾町には今も永井家の本家を中心に多くの一族が生活しています。その中からは多くの有名人が輩出していて、さすがに「学者」の血統を引継いだ一族です。このような家系を見ると、血統の大切さが感じられます。

 

① 初代(始祖):永井伝太郎正直 1582(天正十)年正月に恐らく岡崎で生まれる。父は永井伝八郎直勝で、長子(長男)です。母は、寺津(西尾市)城主大河内秀綱の二女由利姫です。

しかし、1584(天正十四)父直勝が小牧長久手の戦いに参陣し手柄を立てている時に、母の由利姫が死亡する。戦乱のさなかの事とて、正直の養育は家臣に任され、家臣の実家である愛知郡荒井村(現南区鳴尾町)で養育され成長しました。

父はその後大名へと出世し、異母弟の尚政が父の大名の跡を継ぎ、また別の異母弟の直清も、高槻三万六千石の大名と成りました。

しかし、長子の伝太郎正直は、武士には向かなかったのか、母親の関係化、帰農して荒井村に住み着き、一家を成しました。農業を営みながら、製塩を始め製造販売が順調にいって、大豪農となりました。世の中は江戸時代となり、平和な時代になって豊かな生活が続きました。

やがて、父の出身地であった緒川の浄土真宗の了願寺の檀家となって男墓地(本墓)を作り、1659(万治二)年11月18日に永眠しました。享年78歳の長寿でした。戒名は「潮岸院釈良善」といいます。妻は17年後の1676(延宝四)年五月二十六日に入寂されました。なお、本家荒井村の近くの同じく浄土真宗の西来寺の檀家でもあり、こちらには女墓が作られています。子供たちや早死にした妻の墓があります。

 

② 第八代:永井松右衛門匡遄(号は星渚・通称は胗斉しんさい先生)は市川鶴鳴に師事し、その後独学で学んで、忠敬説(なにか?不明)を提唱しました。門弟(弟子)は数百人いて、伊藤両村・沢田眉山などの有名人もいましたし、了願寺の10世の本田正因住職も門弟でした。1820(文政三)年に「胗斉先生の墓」ができました。

昭和37年発行の了願寺の時報『受教』3号に、

 400石取の尾張藩士で明倫堂督学であった細野要斉著の「感奥漫筆」に載せるために星渚学舎を訪れて調査し、1852(嘉永五)年九月二十八日に、緒川村の角屋七左右衛門家に泊って、翌日了願寺に詣でて、住職良因の案内で、星渚先生の墓を見学して碑文を写しました。

 

③ 第12代正履の時代に分家した 永井匡温久一郎禾原(永井荷風の父)は、1874(明治七)年にアメリカのプリンストン大学を卒業し、帰国後は文部省の局長などを歴任する。退官後は日本郵船に入社し、上海支店長などを務め、後に顧問に就任する。

漢詩を鷲津毅堂に学び、秀作を数多く残した。それらの作品を集めた詩集『来青閣集』を著作する。この詩集は、子供の永井荷風から了願寺に、寄贈されています。永井荷風の筆で、「先人遺著来青閣集()今般印刷に付し候間、一部進呈仕り候、御覧を賜り候は大幸の至りに存じ奉り候 敬具 大正二年十二月 永井壮吉(荷風の本名)

 

④ 坂本釤之助(さんのすけ:12世) 永井匡温久一郎禾原の三弟(荷風の叔父)28歳で上京して漢学や書を学び、33歳で松山藩士坂本政均の養子になる。福井・熊本・鹿児島県知事を歴任し、名古屋市長にもなる。貴族院議員にも勅撰(天皇から任命)され、1934(昭和九)年には枢密院顧問官に任ぜられる。

 

⑤ 小説家高見順(13世)は、この坂本之釤之助の福井県知事時代の非摘出子で、本名は高見芳雄、タレントでエッセイストの高見恭子(14世)はその実子。

 

⑥ 永井荷風(本名は壮吉で13世)は、永井匡温久一郎禾原の長男で、荷風は病身で東京高等師範附属中学時代をすごした後に、一家で上海に渡り、帰国後に高師附属中学校の校友会誌「桐蔭会雑誌」に「上海紀行」を著し、文壇にデビューする。以後多数の有名小説を記す。なお、「伝通院」と云う随筆も記しています。東京の御代の方の菩提寺です。(次節参照)

荷風は生来の「名古屋嫌い」で、鳴尾の本家へ来た事も、了願寺の永井一統のお墓参りもしたことがありませんでした。本人の墓は東京の雑司ヶ谷の墓苑に建てられています。しかし、父の詩集「来青閣集」は了願寺に送ってくれました。今も永井荷風の手紙と供に寺宝となっています。

 

⑥ 三島由紀夫(11世) (本名は平岡公威:きみたけ)有名な作家である。彼の祖母(父の母)が、旧姓永井「なつ」といい、永井岩之丞(大審院判事)の娘であり、大江永井家の始祖の永井正直の異母弟「永井尚政」の9代の子孫です。三島由紀夫は永井直勝の11代の子孫になります。鳴尾の永井家の直系ではありません。ちなみに、永井荷風は永井直勝の13代の子孫になります。

 

⑦ 小鳩くるみ 本名鷲津名都江で愛知県一宮氏出身の童謡歌手で有名。ウイペギアによりますと、

永井荷風の母親が旧姓「鷲津恒」で、荷風には鷲津家の血は入っていますが、小鳩くるみには永井家の血は流れていません。荷風の母鷲津恒の従兄弟の曾孫が「小鳩くるみ」こと鷲津名都江です。永井荷風の弟が鷲津家に養子に行っていますので、近い関係でありますが、小鳩くるみの家ではありません。(次にある系図)

しかし、荷風の弟の貞二郎は、永井荷風の弟の精一郎の養子になって鷲津貞次郎となり、その孫が小鳩くるみと云う説もあります。それですと、小鳩くるみ(鷲津名都江)には永井家の血が入っています。直勝の15世になります。

 

六 永井荷風

 

 東浦町の緒川に縁のある永井荷風は父が尾張藩から推薦されてアメリカへ留学し、帰国後に小石川の於大の菩提寺伝通院の近くに住んでいる時に生まれました。

 明治二十六(1893)年までそこで育って、随筆「伝通院」を明治42年ごろに発表しています。荷風は明治41(1908)年に外遊から帰国し、ぶらりと伝通院を訪れたその晩に、本堂が焼失(3度目の大火)してしまったそうです。随筆「伝通院」に、

「なんという不思議な縁であろう。本堂はその日の夜、追憶の散歩から帰って眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」

と記されています。

 また、荷風は、「パリにノートルダム(聖母)寺院」があるように、日本には小石川の「伝通院(徳川幕府の母)」があると自慢したのでした。

  永井荷風も緒川に納められるところですが、父親の代に東京に引っ越して、そちらに新しい墓を作ってしまいました。江戸時代の尾張藩の漢学者「永井星渚」の墓などが了願寺にあります。

 永井荷風以外にも、夏目漱石が若い頃にこの近くに下宿していたので、小説「こころ」で、伝通院について著しています。また幸田露伴も関東大震災後にこの付近に引っ越してきて、現在もその子孫の方が住んで見えます。

 伝通院の出てくる作品には次のものがあります。

 ○ 菊池寛:若杉裁判長・納豆合戦

 ○ 佐々木味津三:右門捕物帳・首吊り5人男

 ○ 徳田秋声:新世帯・微・足迹

 ○ 岡本綺堂:有喜世新聞の話

 ○ 宮本百合子:一本の花

 ○ 中里介山:大菩薩峠(禹門三級の巻・白骨の巻)

 ○ 夏目漱石:琴のそら音・趣味の遺伝・こころ・それから

 ○ 夢野久作:街頭から見た新東京の裏面

 ○ 二葉亭四迷:平凡 

 

七 本陣「大江沢田家」

 

沢田仁右衛門家に残されている1744(延享元)年七月に尾張藩酒井三郎左衛門殿へ提出した「由緒書()」には次のように記入してあります。

 一、私の先祖は当緒川村に居住していた「長田孫八」と申すもので、三河国大浜村長田平右衛門と申す者の養子と成り、平右衛門の娘と夫婦になりこの緒川村に住んでいます。義父の平右衛門の二男が長田伝八で、長田の名字を改めて永井伝八というもので、権現様(徳川家康のこと)に召抱えられて、長久手の戦いの時に池田勝入信輝を討ち取るなど数度の手柄を立てて、取り立てられて(七万二千石の大名)永井右近大夫直勝と申します。またその子は信濃守尚政(こちらも淀城十大名)です。

 (※この後に、本陣宿として、歴代尾張藩主が沢田家に宿泊された事が記入してあります)

 1775(安永四)年の「恐れながら願い上げ候御事」には、

私の先祖の上田無甚は、当緒川村の城主だった水野下野守様に仕えて執権まかり在りましたが、落城の後にこの緒川村に引きこもって農民になりました。

 と記入してあります。どれが正確かはわかりませんが、水野信元の家老の一人であったが、信元が殺された後に、緒川にて帰農したことは間違いありません。帰農しましたが、尾張藩からは、名字帯刀お目見えが許される「武士」の身分を認められました。また、「本陣」として、歴代藩主が知多半島巡行の折にはこの「沢田家」で宿泊されました。

 1800年ごろには、本陣はつぶれ、農民身分に落ちますが、幕末嘉永四年には、13代目がお目見えを許され、家格を回復しました。(本陣までは戻れませんでした)

 1872(明治五)年の年始配り物に、

尾張衣ヶ浦卯の花の里住「沢田仁右衛門大江広信画像」と記入されていて、永井家と同じく、大江広元を祖としている事が分かります。

 

 

    八 大江氏とは

 

 山城国(京都府)乙訓(オトクニ)郡大江郷の地名に由来する。790(延暦九)年十二月に、桓武天皇より、天皇の外祖母であった土師宿禰(はじのすくね)に、「大枝朝臣(おおえあそん)」の姓を賜ったと記されています。

 866(貞観八)年に改姓を願い出て「大江」と改名しました。この家は代々が学者であり、音人(おとんど)・千里(ちさと)・千古(ちふる)・匡衡(まさひら)・匡房(まさふさ)などの著名な歌人や学者が輩出されています。

 鎌倉幕府に招聘されて、鎌倉時代の政治の組織をつくった大江広元からは、長井(永井)・那波・毛利・海東などの氏族ができて行きます。その中の「長井家」が、永井・沢田家の先祖にあたる家です。

 大江匡衡は文章博士であり、尾張の国の国司を三度も勤めています。その妻である赤染衛門は、小倉百人一首のひとりで、

「やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」がある。才媛美女で、宮中でも人気がありました。