村木砦の戦い

 

 

織田信長 天下統一への第一歩

      攻城戦での鉄砲初使用

 

 

時    天文二十三(一五五四)年一月二十四日辰刻~申刻

於いて    知多郡村木村(東浦町大字森岡)

 

 

 

一 義元が上洛を望む

 

室町時代、応仁の乱が勝敗を決することなく終わり、世の中の人々は朝廷・幕府の権威を信用しなくなり、血を血で洗う戦国の世の中になりました。ただ武力あるものだけが上下の関係なく実力で領地を広げていく下克上の時代です。

しかし、それに気が付かずに権威や地位で相手を威嚇しようとして勢力を伸ばすものたちは次々と滅んでいきました。とは言っても戦をするにはやはり、相手を討伐するための名目が必要だったし、名誉や地位も必要なものでもありました。

そんな中の一人であった、尾張守護大名の斯波(しば)義達は、永正十四(一五一七)年に遠江の国(静岡県)の天竜川まで進出し遠江を支配しようとしましたが敗れて逃げ帰り、三河(愛知県)・遠江どころか尾張(愛知県)の実権も、家来の守護代である織田氏に奪い取られてしまいます。

信長の先祖の織田氏はその時に尾張を支配していた守護代の織田氏でなく、その一族ではあったが守護代のさらに下の一奉行に過ぎませんでした。津島の近くの海部郡勝幡城だけを支配していた小大名の跡を継いだ、織田信秀(信長の父)は勝幡城の権力を握ると、経済力・武力ともに急速に力をつけていきました。

しかし、上尾張(春日井郡・山田郡(後の東春日井郡)・丹羽郡・葉栗郡・中島郡)を支配する同族で位のある守護代の織田氏を攻める名目がないから後回しで、同族でも同輩の弱小の城を次々と落とし、海部地方(当時は海東・海西の二郡に分かれていた)から熱田・末森と、愛知郡に進出し、三河国境まで支配していったのです。

駿河国では、守護大名の今川氏親の死後、天文五(一五三六)年に跡を継いだ長男の今川氏輝が早世し、子が無いうちに死んでしまったので、駿河(静岡県)の国の駿府(今の静岡市)の禅徳寺で禅僧となっていた弟が還俗して跡目を継ぐことになりました。それが駿河の守護大名の今川治部太夫義元です。

彼は高い位を相続し、さらに実力もあったために、瞬く間に武力で遠江をも支配し駿河・遠江両国の守護に任命され、さらに三河に進出を始めます。まずは東三河をほぼ支配下に置き、西三河へも手を伸ばしだします。彼が常に家臣たちに言っている言葉が、

「我が欲する事は父の今川氏親が常々言っていた、

『都に上って、我が源氏の棟梁である足利将軍を助けて、室町幕府の権威を再興する事である。これを達成しなければ死んでも死にきれない』

ということであったから、何とかして父の望みを達成するためにも、我は都に上がり、父上の無念を晴らしたいものだ。それなくしては我が今川一族の怨霊は晴れまいぞ。みなの衆よろしく頼むぞよ」

ということであった。

三河の国東加茂郡の松平村(豊田市)から成長した松平氏は、三河各地の豪族に血縁者を送り込み、同族を増やしつつ、松平村から安祥(安城)・岡崎へと勢力を拡大して行った。岡崎城を拠点として、ほぼ西三河を支配した後、天文四(一五三五)年に、徳川家康の祖父にあたる三河の龍と呼ばれた松平清康が、瞬く間に三河全部を支配下に置き、さらに尾張まで攻め入って、愛知郡の森山(名古屋市守山区)において誤って部下によって殺されてしまった。 

跡を継いだ松平広忠(徳川家康の父)は軟弱であり、これから松平氏の勢力は徐々に衰えだし、今川義元がその松平広忠を傘下にしてしまいました。西三河にも今川の勢力が入ってきました。

 

二 水野信元が織田方に与力する

 

応仁の乱の混乱期に、尾張の国知多半島(知多郡)の緒川村に根を張った水野貞守は、松平氏などと同じ様に知多半島の各地に同族を配置して力を増やしつつ、勢力を伸ばして、常滑・大高(名古屋市緑区)・寺部(知多市)に城を持つ同族が住み着きだしました。

その三代後の水野忠政の時にさらに勢いをつけて、南知多から山崎川南部・井戸田(名古屋市南区)にまで進出し、織田氏と対立しつつ、争いにならないようにした。知多半島を支配した後、尾張への進出ではなく、衣ヶ浦湾を利用してその対岸にある刈谷(刈谷市元刈谷)に城を築いて、一応今川・松平とも友好関係を結んで、衣ヶ浦湾沿いに、三河西部(碧海(あおみ)・幡豆郡)を蚕食し始めました。西三河に進出する時に、松平とは親交を結び、勢いのあった松平清康(家康の祖父)には愛する妻達の中で美貌の誉れ高かった於富の方(於大の方の母親)を進呈してまでもよしみを結んだ。松平の弱いところを狙い、松平と事を構えないようにしてさらに、天文十(一五四一)年に娘の於大の方を松平広忠に嫁に出しました。翌年天文十一(一五四二)年に竹千代(徳川家康)が生まれました。そのほかにも多くの親交を結んでいきました。

忠政は、自分の跡継ぎになる息子には、織田信秀の「信」と今川義元の「元」とを取って、水野信元と名乗らせ、織田・今川両有力大名の機嫌を損ねないように苦心しました。忠政の生存中に知多と西三河で織田・今川に属さない弱小の武将達をほとんど支配下に置き、有力大名への足場を固めました。単に武力だけでなく、朝廷や足利幕府とも懇意にして、松平と並んで三河の守護大名にも認められました。

他方、海部郡・愛知郡を支配下に置いた織田信秀は、松平清康の死後に勢いをつけて、西三河に進出し安祥城(安城市)を取り、そして、天文十一(一五四二)年には岡崎の東にある小豆坂の戦い(第一次)で今川軍を破り、西三河に勢力を拡大しました。

天文十二(一五四三)年この年は種子島に鉄砲が伝わった年です。しかしその事はまだ尾張まで伝わっては来なかったけれど、そんな事は露とも知らずに水野忠政は死去する。その跡を継いだ息子の水野信元は、父親に負けない有能な武将であり、さらに領地を広げるためには織田か今川のどちらかに与力しなければもはや領地拡大ができない状態になったので、両者の人柄を考えて、西三河に領地拡大ができると思い、旗色を鮮明にして織田信秀と友好関係になり、今川義元と縁を切り、織田信秀に同心することとなりました。河和・岩滑には娘を嫁にやり、姻戚関係を強めて後顧の憂いをなくし、知多半島の多くに号令が出せるようになりました。

信元が織田方に与力したことがハッキリすると、天文十三(一五四四)年水野信元の妹の於大は縁切りされ、三歳(現在の数え方ではまだ一歳)の竹千代を岡崎に置いて刈谷城に帰されます。そして、3年後の天文十六(一五四七)年には、水野信元の家臣である阿久比城の久松俊勝に再嫁します。松平家と久松家では同じ大名のように見えても格違いました。

しかし、天文十七(一五四八)年にまた今川義元と、織田信秀の間で小豆坂の戦い(第二次)があり、今度は織田信秀が負けます。そして天文十八(一五四九)年には、安祥(安城)城を今川軍が取り返し、織田信秀の子供の織田信弘(信長の義兄)を捕虜にしてしまい、織田信秀の人質にされていた竹千代(徳川家康)と人質交換をしました。

織田信秀の直接の三河支配は終わりを告げました。信秀は「うつけ」といわれる信長の嫁に、美濃(岐阜県)のマムシ、斉藤道三の娘を嫁にもらい、後方と手を結ぶ事により、上尾張の同族との争いに勢力を注ぎ込む。そして、傘下の水野信元は西三河に勢力を広げていきました。

天文二十(一五五一)年に、織田信秀が死に織田信長が跡を継ぎます。「うつけもの」が相手ならとすぐに母親と弟の反発が起こり、まずは血肉の争いから始めなければならなかったのです。信長は実の母と実の弟と言う一番濃い血縁関係にありながら対立しなければならなったのです。せっかく下尾張を相続しながら、那古野城を中心に、まずは父信秀の支配地であった海東郡・愛知郡を取ることに勢力を注ぐことから始めなければなりませんでした。水野信元は織田信長が本当のうつけなのか、天下を取ることのできる天才児なのかまだ見極めることができない状態になりました。

信長が同族との争いに苦悩している時、この織田勢同士の内部争いで尾張の国が弱くなったところを見て、今川勢が尾張を蚕食しようと動きだしました。

 

三 義元に村木砦建設を進言する

 

天文二十二(一五五三)年一月に、今川義元は、織田方の山岡氏が城を構えていた碧海郡鴫原(知立市重原)の城を落とし、ここを拠点にして、刈谷・緒川を支配する水野信元に何度も密書を送り、手を尽くして同心を呼びかけるが水野信元は全く応じようとはしません。

かといって、頑丈なつくりである刈谷の城を正面から攻撃したのでは落としにくいし、もし勝てても被害甚大となるところです。その時の刈谷の城主は水野下野守信元で、緒川の城主は信元ですが、守将としてその弟の水野清六郎忠守がいました。信元は、潰れかかってはいるが権威だけある室町幕府ともよしみを結び、父の忠政同様に「下野守」としての官位をもらい、将軍に与力する三河の正式の守護大名としての地位ももらっていました。

今川義元としては、岡崎の松平家のように、味方にならないかと何度もあの手・この手で信元に近づきました。しかし水野信元は、今川義元の権威をかざしての征服には同意することなく、父の忠政が今川・織田の両者の間で中立を保とうとしたのに対し、子供の頃から織田信秀に好意を持っていて、信長の世になってもその実力がまだわからないうちから、その考えを変えようとはしませんでした。義元のやり方が気にくわなかったことも大きな原因です。

同じく天文二十二年の二月下旬の駿河の国は府中の今川義元の城。サクラ見物の大広場で催された花見の宴の中での事。この年は二月末(今の四月初旬)にサクラが満開になり、駿河・遠江の守護大名である今川義元をはじめとして、大老から近習にいたるまで、今川領内のそうそうたる武将が集まって大花見の宴会が催されました。松平元康は人質の身でまだ十二歳でこの花見の宴には参加させてもらえません。

この城主の今川義元がみんなの前で言うには、

「今日のこの美しい花を皆とともにめでる事はとてもうれしい事である。しかし、我が胸には未だに、父上の氏親(うじちか)公の大望が達成できない事は痛恨のきわまりである。早く上京して足利将軍家を補助し、盛り立てたいと言う父の無念を晴らしたいものじゃ。誰か良い考えはないか」

それを聞いた老中を初めとする近習達は、だれもよい案がなくて皆が下を向いてうな垂れてしまいました。せっかくの満開のサクラを見ることができなくなりました。殿の野望は幾度も聞いていたけれど、そう簡単に達成できるものではありません。刈谷の城ひとつを攻め取る事すら躊躇している状態なのです。

その刈谷の先には尾張があり、美濃の斉藤道三が待ち受け、近江の浅井・佐々木・六角を味方にするか滅ぼして通らなければ京都には上れません。京都ははるか彼方に霞んでいる状態です。せっかくの素晴らしい花見の宴もこれでは花がなえてしまうと皆が苦慮していた時に、末席にいた石川新左衛門が申し出ました。

「恐れながら殿に申し上げます。拙者が昨年、尾張に忍び込んだ時に嵐にあって、道に迷ってしまって知多の半島の中をさまよってしまい、どこにいるやら山や川・里も海も分からない中をうろつきました。

小さな丘をいくつも越えて、ようやくにして近くにいた農民に聞いて、案内をしてもらったところ、刈谷・緒川の両城主である水野信元の緒川城のすぐ子(北)の方角にある、村木村(東浦町森岡)というところであることが分かりました。手をかざして見るに、緒川の城も、海を挟んだ刈谷の城も遠望できる場所でとても見通しがよいところでした。

そこの北には、石ヶ瀬川という川か海か定かでない広い河口が広大な葦の原を作り、その対岸の北方には大府村・横根村がかすんで見えます。満潮時には船も出せますが、葦の湿原やら砂洲やら、川筋も定かでありません。(注1)東には三河との境をなす衣ヶ浦の入り江が広がり、境川・逢妻川・石ヶ瀬川などが流れ込み大河のようになっています。向こう岸に()刈谷村、刈谷城・熊村・高津波村などが並んでいます。 

西には、海辺近くまで山が迫り、トゲのある樹木が生い茂り、南だけは、広大な田圃と、塩田で緒川につながっていました。亥の方角(北北西)に道がつながり、猪伏村に通じ、その村からは、大高・大府・横須賀に通じる道がありました。

しかも、村木村の海岸部に、岬のように突き出たおよそ6間(約11m)ほどの高さのこんもりとした丘があるのです。これこそ我が今川のために天が下された天然の要塞、砦を作るに打って付けの場所とこころえました。

水野を威圧し、屈服させるためには最高の場所と見受けましました。しかも、それより丑寅(東北)の方向に船を進めれば、刈谷の城に気付かれずに、逢妻の川を遡り、鴫原の砦近くに行く事ができました。

この場所にこそ、砦を築き、尾張への足がかりとすれば、水野はたちまちに屈服し、織田勢を蹴散らすのはたやすい事と見受けいたしました。いかがでありますしょうか」

と、申し上げました。

注1::平成十二(2000)年の東海豪雨で、この当時の川幅(海)の部分が水没しました。

 

四 義元が村木砦建設を命令する

 

それを聞いた、今川の猛将たち、朝比奈・江馬・左京・四江・四ノ宮・富永・富塚・井伊などが皆笑みを浮かべて、

「それは良い考えだ。くわしい地図を作ってすぐに実行しようではないか」

と賛成しました。

そこに、松平元康の同族の松平甚太郎家重が、

「その村木村なるところから山を越えた向こうの西海岸の伊勢湾に面したところに、寺本村というところがあり、そこの城主花井氏と我が家臣の、榊原歌之助と縁あって、互いに便りを出し合っているとの事。それによると今川への与力の心ありと見ました。この村木の砦ができれば、横須賀を通って寺元へも軍勢が出せます。そうなれば水野信元は『袋のネズミも同じ』その後に大軍を持って尾張・美濃を突けばもはや京都は目の前になります。是非この案をお取り上げになりますように」

これを聞いて、義元は大いに喜び、

「すぐにその案を実行せよ。まず地図を作って差し出せ、砦の設計図をわしが作るから、それを基にして実行に移れ。敵の面前で、城作りをするわけにもいかないだろうから、この駿府か三河の吉田(豊橋市)で一度作ってから、分解して船で運び村木の砦で再度組み立てれば、三日もあればできるであろうに。すぐに駿・遠・三の全支配地に手配して取り掛かれ」

もはや花見ではありません。すぐにそれぞれ手配を始め、

村木村付近の見取り図と村木砦の設計図が作られ、木材を切り出し、大工を集めて工事に取り掛かりました。吉田城の近くに砦の館が作られだしました。東三河の山から木が切り倒され豊川を流し、吉田城近くで大工が忙しく働き出します。幡豆郡で石が切り出されて船に積まれて準備が始まりました。一方では、水野に対して時々攻める構えを見せて、水野方を緊張させ神経戦も始めました。

瞬く間に準備ができて、六月一日には駿河や三河から発した作業船が荷物を積んで村木村に接岸いたしました。今川の軍勢も三千人ほどが守備に付いて来ました。

しかし、ここが信長軍と違って、五日が吉日であるから、普請はしばし待てと、あわてることなく日を選んで作業を開始しました。

 

 

五 信長が道三と会合する

 

織田信長はこの府中で話し合われた今川の村木砦建設のことをまだ知りませんでしたが、そのすぐ後の四月に舅である斉藤道三と対面しています。起(元尾西市:現一宮市)宿の近くの冨田村にある正徳寺で対面することになりました。

その時に、道三はうつけの信長がどのような姿で来るかこっそりと、隣の藁葺きの家でのぞいていてその姿を見て、

「やはりうつけか!」

と落胆しかけたが、

「いや違う!まともだ」

信長の姿は礼儀を知らないへんてこりんでしたがそれに従ってくる軍団は、3間半(6・3m)の長槍部隊と、弓部隊・鉄砲隊(信長公記では300丁となっているがまだ10丁程度だろうか)でその整然とした姿に驚きました。

信長は正徳寺に到着すると、すぐには道三の前には出てこないで衣服を正してから、慄然とした姿で道三の前に現れました。

これを見て道三は先ほどかいま見たのとは大違いで、そのりりしい姿に驚いてしまいました。そして、

「これでは我が息子どもはとてもかなわない、わしよりも上を行くわい。誠に天下を取れる人物だわい」

と、心の中で思いました。

信長は義父に対する挨拶を滞りなく済ませた後で、

「先ほどこの寺に入る前にボロ家の中に、義父によく似た老いぼれを見ましたが、何かの間違いでしょうか。ワハハ」

と、こっそり見ていたことまで見破られていました。

 

六 村木砦が完成する

 

刈谷城にいた水野信元としては、突如と今川の大軍が船を並べ、村木村の砦を造り出したのを見ましたが、水野軍だけではとても手が出せません。そこを守る軍船や鴫原の城からの仕掛けに苦慮して、織田信長の下に再三援助を乞いました。しかし、ちょうどその時、織田信長は清洲を支配する尾張守護代であった斯波義良を保護している織田彦五郎信友と対立して戦を構えている最中で、とても援軍を出せる状態ではありませんでした。

信長からの返事では、

「あせるな、しばし待て。今川が砦を作りあげて構えていても、こちらから手を出すな。何事も起こらなければ『水野や織田方は怖気づいて何もできない。これで安心だ。ここを拠点に水野を撃てる』と思わせておけ。そしてしばらく待てば、上京の準備のために守備兵だけを残して一度は撤退をするからその時が好機である。それまで良く見張っていてその時を知らせよ」

と、自信満々の回答がきました。この手紙を見て信元は、

「本当に大丈夫かなあ。作っている時が一番攻め易いと思うけれど。わしはあのうつけと呼ばれた織田信長と心中する気はないのだ。危なくなったら今川に与力した方がいいかもしれない。しかし、あの威張っているいやらしい義元のところに人質を出す気はないし、ともあれ、まずは信長の考えに従ってみるか」

村木の砦は緊張感も徐々に取れ、のんびりと三ヶ月ほどかけて出来上がりました。今川の三千の軍勢が見張る中を、三河中の大工・左官・人夫を駆り集めさらに村木村の農民を駆り立てて、砦作りが行われました。

本丸には土を盛って高みとし、山を崩して地を均し、土台となしてその上に城の様な砦を作り出しました。指図するは、発起人の石川新左衛門で、手に持っている砦の見取り図は今川義元直筆の図面でした。

周りを掘り下げ、三河からもってきた石を組んで、堀を作り、橋を架けて土塁を盛り、柵を造りました。全体の広さは、南北が百二十間(約220m)、東西が百間(約180m)ほどで、その中高いとこ六間(約10m)の場所を本丸として六十間(約108m)四方の館を組み立て、乾坤(西)の方角には、隅櫓を組んで、その下に搦め手の門を築いた。堀の多くはそれまであった深田を利用して、いざとなれば逆茂木や撒き菱を張り詰めればよいのです。最前線に作る砦としては見た目に頑丈そうで、万全と思われる砦を築きました。その周りは北と東が海であり、南と西は沼田で、簡単には人馬を通すことはできない自然の要害です。

これでよしと、九月には完成式をして、同じ松平ながら元康とは遠い血縁関係で早くから今川に与力していた松平甚太郎家重を城代として守らせ他の者は引き上げました。しかし、水野軍や織田軍が攻めて来る気配は見られませんでした。守備兵は少しずつ減り続け、年末には三百人程に減ってしまいました。時々、

「鷹狩りだ、鶴を捕まえよ」

と、周りの田圃を散々に荒らしまわりました。水野信元や織田軍が攻めていかないので、今川勢も、

「腰抜けの織田勢め。恐れをなして攻めてこないではないか。信元も近いうちに降伏してくるだろう」

と、安心していました。しかし、水野信元だけではとても攻撃するだけの武力はまだなかったのです。彼にはせいぜい五百人ほどしか兵を集められる領地しかありませんでした。それでも知多半島や三河の田舎の土豪を攻めるには十分な軍隊でした。

そして半分は弟の水野清六郎忠守が指揮を取っていました。当時としては籠城する敵を攻めるためには、三倍の兵がほしかったのです。更に、攻めるのに手間取ってモタモタしていたら、鴫原の砦からまた三百人の応援がすぐに到着するだろう。どうしても織田信長の援軍が欲しかったが一兵も送ってきませんでした。

義元からはいろいろな武将を通して、今川に下るように誘いがあったが、彼は信秀以来の恩を感じ、信長の指示を信じて裏切ろうとはしませんでした。しかし、心は揺らいでいました。けれど、信長の予想したように、今川軍は守兵も少なくなり安心しきっていました。信長への情報提供は欠かさずに毎日のように出していましたし、信長は多くの間者を各地に張り巡らして情報を正確につかんでいました。

今川義元は、寺本の花井氏に使者をたびたび送り、味方になるようにと勧めました。花井氏からはよい返事が返ってきました。後は、水野信元さえ味方してくれれば尾張は半分取れたようなものだ、と考えていました。

 

七 信長が道三に留守を頼む

 

天文二十三(一五五四)年正月十六日。小正月も終わって、そろそろ梅の花も咲き出し、春めいてきました、美濃の国は稲葉山の斉藤道三の館。道三が古くからの家老の一人である安藤伊賀守範俊を特別に呼んで話を始めました。

「尾張の婿、信長から密書が届いた。上尾張の織田勢と戦っている最中なのに、知多地方を今川に取られてしまう。全軍を上げて水野信元を助けに行かなければならないから、舅であるわしに那古野城の留守居をしてほしいとの依頼が来た。おぬしどう思うかの」

安藤範俊が答えるに、

「殿に留守を頼むとは、うつけめ、何を血迷っているのか。どこまで本気でございますか」

「わしの婿をうつけとは何事か。口を慎め。とは言うもののやはり、あやつの考えが良くわからん。どこまで本気なのか。我が美濃軍を今川軍と戦わせる気かもしれない」

当時としてはたとえ兄弟・親戚とはいえ、城を全部明け渡して助けを頼む事は考えられなかった。援軍としてわずかな兵を引き入れただけで内部から裏切られて門を開けられ、乗っ取られる事もしばしばあった。

「申訳ありません。つい本音が出てしまいました。今川に敗れるか、それとも我々の軍が城を乗っ取ってしまうか。どちらにしても織田信長の命はそう長いものではありません」

「わしも前ならそう思うが、去年の冨田での会見でやつを見直した。ひょっとするとすごいことをしでかすかもしれない。そこでじゃ、おぬしに那古野城の留守居役として出陣してもらいたいのだ」

「おまかせあれ。どうせ、信長が、一度出陣したら、帰ってくるまでに一か月程はかかることでしょう。留守居の武将たちに難癖をつけ、いざこざを起こさせ、信長が帰ってくるまでには那古野城を乗っ取っておき、疲れ切って帰ってきた信長軍を城内から打って出て、亡き者にしてしまいましょう。お濃の方はそれ以前になにか安全な方法で美濃に送り返しますが、それでよろしゅうございますか」

「さすが、わしが見込んだだけはある。そこまで配慮してくれるか安藤範俊。しかし、早まるでないぞよ。信長の動きを見た上で、きやつに武将としての価値がないものと分かってから行動に出るように」

「心得ております。もし、信長が、この苦難をたやすく乗り越えたならば天晴れな武将として、殿のお目にかなうよき婿殿と認め、城を返して引き上げてまいります。そんな事はまずない事と思いますが」

「うむ、信長は全軍でも一千の兵だろうから、戦いに疲れて帰ってくることだし、こちらが城内にいるのだから。同数で十分だろう。そちに一千の兵を預けるから、よろしく頼むぞよ。ついでに、濃の命もな」

「かしこまりました。いつ出発すればよろしいでしょうか」

「急いでいるようだから、明後日の、十八日にでも出てくれるか。三日もあれば那古野城に着けるであろう。食糧は向こうで調達すればいいから、準備にはそう時間もかけなくてよいだろう」

「かしこまりました。那古野の城の中のものは全て美濃のものと思って使わせていただきます。難癖付けられれば勿怪の幸い。すぐに占領してしまいます」

 

八 信長は清洲を攻める

 

織田信長としては、清洲の織田彦五郎信友と戦っている最中だし、自分の城である那古野城を空にしたら、織田彦五郎信友だけでなく、母が味方している実の弟の信行にも簡単に取られてしまう。兵力を裂いて半分の五百の兵で水野信元を助けに行ったら、砦を落とすのに時間がかかってしまい、モタモタしているうちに、残った五百の兵では上尾張のいくつかの織田が同盟を結んで攻めて来たらこちらも危なくなってしまう。

できることなら、全軍を挙げてすばやく行動してすぐに村木砦を潰してすぐに引き返して来たい。日ごろの訓練で織田軍は素早い移動と戦いには慣れている。織田軍は数は少ないが他の大名の兵とは違い、常備軍であった。他の大名の軍隊は日ごろは領地で農民を支配しながら軍事訓練を時々して、大名からお呼びがかかると兵を集めて大名のもとにはせ参じた。

そこで一計を案じた。今まで誰も気が付かないし、考えも及ばないことをやってのけようとした。それがなんと、妻である濃姫の父親で「マムシの道三」と恐れられている、美濃の斉藤山城守利之入道道三に留守の為の援軍を頼むという計画である。

妻の実家とはいえ戦国の時代の事、たとえわずかな援軍であっても城に入れたら、中から反乱を起してそのまま乗っ取られるのが普通に起る時代の事。そのような無謀なことをしても、すばやい行動ができてすぐに引き返してくれば美濃の軍もその勢いに圧倒されて乗っ取られることはないだろうと考えた。

直ちに出陣の準備をさせて、美濃から留守役の援軍が来たらすぐに出発できるようにした。もちろん、食糧から船の準備まで準備万端整えた。間者を使ってうその情報を尾張中に広めさせた。

「信長は清洲に全軍で攻め込む。今度は本気だぞ」

と言ううわさでした。

 

九 信長は那古野城を明け渡す

 

天文二十三(一五五四)一月二十日に、美濃国稲葉城下から九里(三六㎞)の道を三日間かけて安藤伊賀守範俊が一千の兵を連れて那古野城に向かった。一千騎の軍隊をいくつかの川(今の長良川・木曽川:当時はまだいくつかに分流していて川筋はたくさんあった)を越えてやって来ればそれだけの時間がかかるのが普通であった。

物見の連絡により、

「道三の家来の安藤伊賀守範俊と、田宮甲山安斎・熊沢物取源五などが一千騎の軍隊を引き連れて那古野城にやって来ます」

と、すでに情報が入っていたので、信長の軍隊一千騎は、出陣の準備を整え、城外に勢ぞろいをして待っていた。信長の前に、美濃からの留守居役大将安藤範俊が進み出て、

「お待たせいたした。私が、道三殿から那古野城の守備を任された安藤伊賀守範俊です」

と、挨拶をすると、

「さすがに舅殿、この信長の意を汲んで、安藤伊賀守範俊と一千の軍隊であれば、安心してこの城を任せられるわい。よく来て下さいました。我々は今すぐに出陣しますので、後をよろしく頼みます」

「と、言われましても、どのように守ればよろしいのですか」

「どのようにと言っても、すべてを任せるのだ。好きなように守ってくれ。注文はつけまい。後は、お濃とよく話し合ってくれ、わしには時間がないのだ。七日以内には戻ってくるからそれまでよろしく」

信長は尾張軍に向かって、

「それ、全軍、美濃の衆にお礼を言って出陣じゃ」

「エイエイオー、美濃の衆よろしく頼みます」

と、鬨の声をあげて信長軍は駆け足で出陣して行った。

向かったのは、南の知多半島方面へ、ではなくて北の織田彦五郎信友の支配している春日井郡志賀・田端の両村に攻め込んだ。北に攻めると見せかけるためだ。織田信友の支配する春日井郡の小さな村々をなるべく大げさに荒らしまわって、すぐに兵を静かに南の熱田へと向かわせました。

驚いた清洲城の織田彦五郎信友はすぐに城門を閉めて籠城をした。今までに散々振り回されて信長の強さを知っていたから篭城が一番と思ったのです。

 

 

 

十 道三の家来が那古野城を支配する

 

美濃の軍隊は、あっけに取られ、恐る恐る那古野の城内に入城した。中では、お濃の方が待っていた。

「おう、これは、これは、安藤伊賀守範俊殿ではござりませんか。夫信長のお願いをよろしく頼みますぞえ。さすがに、我が父道三だわ。わらわのよく知っている、賢明なる安藤伊賀守範俊殿を御遣わしなされるとは」

「これは、これは、お濃殿、お懐かしゅうございます。して、どこまで我が軍が入り込んで守ればよろしゅうございますか。留守居の武将殿はどなたで、どこに居られるのでしょうか」

「留守居の武将は誰も居りません。男集はすべて出陣いたしました。どこで守るといっても、そちが必要とするならば、本丸だろうが二の丸だろうが、大奥だろうが、すべて自由にお使いください。只今からそちがこの那古野城の主である。我が夫信長が帰城した時に、マムシの道三の部下として美濃の衆として、恥ずかしくない状態でお返しくださればよろしいのです」

「これは参りましたな。留守居の武将がひとりもいないとは。いさかいを起そうにも相手がいなくてはできませぬな。それでは食糧も武器も金もすべて我々の自由にしてよろしいのですか。我々が裏切ったらどうするおつもりかな」

「父の道三がそちを遣したからには、我が夫信長もそちを全面的に信頼しての行動です。それが道三と信長の信頼関係です。いざ、わらわにも命令を出してくだされ」

「滅相もございません。そこまで信頼されたからには、信長殿が帰られるまで、きちっと何事もなきように命に代えてでもお守りいたします。大奥はもちろん、本丸・二の丸までは一切手をつけません。留守居の間に使う少々の食糧だけをお願い致します」

「それなら、わらわは女衆を連れて城下の武将宅に避難していますので後をよろしく。この那古野城全部の鍵がこれで御座います。これをお渡しいたしますのでなんなりとお好きなだけどうぞ。昨年は豊作でしたので、まだ十分に食糧は御座いましょう」

安藤伊賀守範俊は直ちに美濃軍の武将を集め、兵士のほとんどは野営させ、一部の武将だけを三の丸に宿泊させ、それ以上の城内へは美濃衆をひとりも入れなかった。外部への見回りだけは厳しく守らせた。けんかを吹っかけようにも男衆が全ていなくてはもめごとも起しようがなかった。

 

緒川 入海神社

 

十一 信長が嵐の中を渡海する

 

信長の軍は二手に分かれ、二十一日の早朝に志賀・田端の両村の砦を襲った。はげしく攻め込まずに威嚇しただけであった。攻めるときは派手に騒いだが、引き返す時はひっそりとこれでも同じ軍隊かと思われる変わりようであった。

これにより清洲の織田彦五郎信友を始め上尾張のいくつかの城は篭城し始めた。今までの経験で清洲に向かうと見せて、別の城に攻める可能性があったからである。それでもまさか知多半島に行くとは考えなかった。今川方の間者も、信長がよもや村木の砦に攻めていくとは思わなく、今川義元の元には、

「信長は上尾張に攻め込んだ。当分信長が村木砦に出陣するとことはない。安心せよ」

と、連絡した。

二十一日の夕刻に、信長は神も仏も信じなかったが兵たちを鼓舞するために、織田軍千騎が熱田神宮に戦勝を祈願して、その前にある宮の渡し(熱田)の港に勢ぞろいした。そこにはすでに信長が集めることのできるだけの軍船を待機させていました。

信長は海部郡を支配していて、商業の中心であった津島の港から大量の船を廻すことができた。千騎の軍馬を乗せるに十分であった。五十名の武将を乗せる帆船が十艘。三十名を乗せる帆船が十隻。二十名を乗せる帆船が十隻。それに荷駄を乗せる船数は数知れず並んでいました。

二十二日の朝が明けたけれど、あいにくと春先に良くある暴風雨だったのです。しばらく待機したが風雨はますます強くなるばかり。待つほどに激しさを増しだしました。

信長はこれ以上待てないと、

「船を出せ」

と命令した。しかし船頭たちは、

「この風雨ではとても無理です。しばらく待機することが賢明かと思います。お待ちください」

しかし、信長は聞かなかった。

「この暴風は好機だぞ。よもやこの嵐の中を信長軍が攻めてくるとは思われないだろう。その昔、源平の戦いの折に、源九郎判官義経が屋島にいた平家を討たんものと大阪の渡辺の港から船を乗り出した時は、これよりはげしい暴風雨だったはずじゃ。天は我に加担している。見よ、この風向きを。知多の方向に吹いているじゃないか。神風だ」

巳の刻(10時)には無理矢理に船を出させて、折からの伊吹颪の強風雨の中を、帆を張らせて出発する。目指すは知多半島の先端の幡豆岬。海上十五里(60㎞)もある。疾風に乗って瞬く間に、トドメキ(現東海市名和町)の岬を横に見る。

ここまでに遅れを取った船は、これより阿由知潟(今の天白川付近)に入り、大高の港より陸路を村木村にと取らせる。大高からなら陸路で、二里十丁(約9㎞)で村木砦に着けるが、今川方の見張りに見つかる可能性が高い。副将の織田信光が300名ほどの軍勢で大高の港へ向かった。信長本隊はわざわざ知多半島の南端を大回りして緒川へと向かった。

鬼崎(現常滑市)・富具岬(現美浜町野間)と勢いをつけ、辰巳(南東)に舵を取って、嵐の中の順風満帆、内海を越えて師崎の港に収まる。信長の勢いに負けたのか、富具岬を越えた頃から風も収まりだし、幡豆岬を回る頃には凪の状態となり、申の刻(4時)には大井の港(南知多町)に上陸できる。十五里の海上を見事に三(とき)時間)ほどで踏破できました。今宵はこの港にて野営となる。そこでは、師崎付近を支配する千賀重信の供応を受けて新鮮なる海鮮料理のご馳走となる。信長の支配地は海に面しているから、武将の多くは新鮮なる海産物を知ってはいるが、それでも生まれて始めての採れたての新鮮なる海産物のうまさに驚きの声を揚げる。海鼠腸(このわた)・生タコの刺身・海老の踊り食いなどこの世のものとは思えないほどの美味である。

千賀重信一族は、宮(熱田)の岡本善七郎や、津島の神官出身の堀田五郎と共に伊勢湾の海運を支配し義兄弟の仲にあった。信長の海軍を引き受け諸国の産物の運搬を生業としていた。時には海賊と早や代わりすることもあった。後の信長の主力海軍となる熊野灘の九鬼一族とは当時はまだ対立関係にあった。

 

十二 信長が緒川城に入城する

 

明けて二十三日冬晴れの中を静かに大足(現武豊町)の港まで船にて渡り、迎えに出てきた水野信元と対面する。水軍は明日の戦場の海上封鎖に回すために亀崎の港へ静かに廻わさせる。帰りは陸路を那古野城まで帰る予定である。

「信長殿わざわざ御自らの出陣有り難う御座います。これで村木の砦もすぐに落ちる事でしょう」

「挨拶はどうでもよい。それよりか早く静かに緒川村に到着し、村木の砦を閉鎖する事が肝心じゃ。わしの出陣について今川方には漏れてないだろうな」

「は、ご安心ください。今川方どころかわが軍でも、殿の出陣を知るものは数少ない状態です」

「大高より上陸した三百人ほどがすでに到着のはずだが」

確かに昨日のうちに村木村に到着し、我が軍五百名と共に村木砦を取り囲んでいます。もはや村木砦はネズミ一匹這い出す事もできません。これより緒川村まで陸路四里(16㎞)強で御座います。急げば二(とき)(四時間)程かと思います。道も海岸に沿い平坦なところがほとんどです」

そして信長軍の主力は、申刻(午後四時)には緒川の城に到着する。

昨日のうちに大高に上陸した三百人の将兵は、途中にいるはずの今川方の見張りにも見つかりませんでした。このような天候ではだれも通らないだろうと、村木砦と寺元に引き上げていて、今川方には村木砦を囲むまで覚られる事はありませんでした。

よもや今川勢は、この時化の中を大軍が船で出陣したとは思いませんでした。鴫原の城にいた今川の援軍も、

「信長は清洲城を攻める」

の情報を得てのんびりした状態で、要請もないので準備もしていませんでした。

二十二日の夜には村木砦を水野軍と織田軍の一部で包囲したままで、時々鬨の声をあげては敵軍の気勢をそがせました。アリの子一匹通れない状態にして、守りを固めました。城内から鴫原に連絡を取る事ができませんでした。二十三日も一日中同じ状態で、攻めるぞ、攻めるぞと脅かし続けました。砦内の今川軍はすでに浮き足立っていました。その状態にしておいて、信元は、従者を十名ほど連れて大足(武豊町)まで信長を迎えに行ったのです。

 

二十三日に信長は緒川の城に到着するや直ちに物見を出し、自らも日の暮れぬうちに村木村の山の手(現村木神社)に立ち、明日の戦場になる場所の検分をしました。村木砦の周りの地形・天候・潮の流れ山の樹木の茂り具合、砦の内外の状態、今川軍の配置や軍勢の意気を探らせ、軍の配備を終えてから夕食をとって、その後に刈谷の城主水野下野守信元とその弟で緒川の守将水野清六郎忠守らと軍議を開きました。       

 

 

十三 信長と信元が緒川城で軍議する

 

水野下野守信元にとっては、父親の信秀からの付き合いで織田方に与力していたが、まだ、信長の本当の力を知らない。しかし水野信元にとっては全軍を集めても五百人程しかいない弱小大名でしかない。この戦いで負けることがあったら権威を傘に着ていばっている、いやらしい今川の傘下に入るつもりであった。

岡崎の松平家のように人質を取られ、織田との戦いの時には先陣をまかされ、多大の犠牲を払わなければならない。できれば今回の戦いも、水野家のための戦いだがなるべく犠牲の少ないようにしたかった。彼が集める事のできる軍隊は五百人程だが、今までの小大名同士の戦いでは、二百人も動かせればそれで十分な戦力であった。

信長は、村木村の地形図や城の見取り図を見て配置を決める。水野信元の意見も聞かずに次のように指示した。

「東の大手門へは、緒川の城主水野清六郎忠守殿が、刈谷・緒川の軍勢三百にて攻めよ。西の搦め手からは、我が織田軍の副将の織田孫三郎信光が軍勢五百にて攻める。南の大堀を越えては、わし、信長が本隊五百にて攻める。北は崖になっていてその先は湿原であるからここからは見張りだけ置いて攻めないし、武将も配置しない。砦からの使いが出ないように見張りを置くだけだ十分だ。水野下野守信元殿は水野軍の残り二百にて、わが水軍と協力し、東の衣ヶ浦に水軍を配置して、今川の援軍が来たらそれを阻止する。あるいは逃げる今川軍を横から討伐する。以上だ。何か不服があるか」

信長の喋り方は若干二十歳に過ぎないが、わずか三年間で何度も修羅場をくぐっているだけあり、命令口調であるが水野信元にとっても納得いく配置であった。

信元は心の中で、

「この戦いは信長軍が主力となって攻撃してくれるので、水野軍にとってはあまり犠牲が出ない配置だ。それにしても信長め、すごく強気だな。どっちに転んでもこれで安心だ」

と、思いながらも、信長に対しては、

「承知いたしました。すべて仰せにしたがいます。信長殿の援軍のすばやい動きを見て、この戦いは必ずや勝つであろうと確信いたしました。我が軍も全力を出して戦います。して攻撃開始は」

信長からは、

「明日は春先には珍しいほどの上天気となるであろう。総攻撃は明朝辰刻(朝八時)である。信元殿・忠守殿よろしいかな」

忠守が、

「早春とは言え、卯刻(朝六時)には明るくなりますが?」

信長がすぐにさえぎって、

「辰刻でよろしい。戦で十分に動き回れるように朝食をしっかりとって腹ごしらえをして、太陽がしっかり出て、朝霧が消えてからでよろしい。我が軍には種子島(鉄砲)がある。完全に明けきってからの方が効き目は大きいのだ」

と言うことで軍議は簡単に終わり、その夜のうちに全軍に指示し配置に着かせる。水野軍は地元で集結して待っていたから問題ないが、織田軍は城を出てから、三日間の行軍と風雨の中を移動して来たにもかかわらず疲れを見せずに意気軒昂であった。

今川方の守備軍は信元の弱腰の態度に安心しきっていて、わずかに三百人ほどでありしかも援軍を鴫原に頼む間もなく包囲されてしまい、城に入るための搦め手の橋を切り落とすことすらできなかった。城門を硬く閉じて立て篭もっていてもすでに戦意が落ちだした。援軍依頼の使いは出したがもはや囲みを通り抜けることは不可能であった。

二十三日は春の嵐の後の晴天であったが、寒さの中を静かに暮れていった。嵐の前の静けさで、朝霧も少し出たが、夜明けと共に霧も晴れて快晴となった。

 

 

十四 鉄砲を連続して発射する

 

一月二十四日卯の刻(6時)頃には夜が明けだすが、今川方はいつ攻められるかと落ちついて朝食の準備もできずに怯えていたが、織田・水野軍は朝の食事をしっかりと取って、朝霧のなくなるのを待って晴天の中、日が見えるようになってから、辰の刻になるのを待って、三方から一度に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。

南から攻める本隊の信長軍は、堀を挟んでの弓矢の打ち合いから戦いが始まる。その弓矢の打ち合いの中で、相手の矢の届く寸前から、新兵器の「種子島」を多数といっても数本持ち出し、信長自らが次から次へと、相手方の中央部の一番頑丈そうな二つの狭間の間に打ち続ける。雑兵が弾を込め、筒を掃除して火をつけて信長に次々に渡すから信長は連続して種子島を撃ち続ける事ができる。これなら、種子島が一発撃つまでに時間がかかるといっても連続して撃ち続けられる訳だ。

今川軍にとってはうわさにしか聞いたことのなかった種子島の威力に驚き、すぐに浮き足立っていた。種子島は1丁ずつしか打てないが、その音の大きいことでまず雑兵は驚いてしまう。そして誰かが倒れる。いまだかって聞いたことのない音と目に見えないほどの速さの鉄砲玉が飛び込むのです。大将自らの活躍により、弱くなった狭間へ勢いを得た織田軍が沼田を渡って押しかけた。強力そうに作られていた南面は種子島の前ではいとも簡単に破られることとなった。

しかしそれよりも早く織田孫三郎信光が攻める西の搦め手では、奇襲で回りを囲ってしまって、今川軍は城に入る橋を切り落とすことができませんでしたので、その橋を渡って楯を持って矢を防ぎながら門前にたどり着き、勇猛な六鹿椎左衛門と言う者が搦め手門を打ち壊し一番乗りをとげた。それに勢いを得て織田孫三郎信光の軍勢五百騎が一気に砦内になだれ込んだ。たちまちに城内は入り乱れての白兵戦となる。

その勢いで、敵の守りは総崩れとなり、城内は混乱しました。海岸の船着場から攻め込んでいった水野軍三百騎も最も頑丈な東の大手門を打ち破ぶり水野清六郎忠守の鼓舞する声に、織田勢に負けるなと続いて切り込み激しい白兵戦が続いたが、勝敗は夜を待たずに決しました。申の刻(午後4時)には終わってしまいます。今川の総力を集めて作った砦だから、頑丈なる作りと思われたが、信長の前には「張子の虎より弱い張子の城」でしかありませんでした。

朝の辰の刻(8時)から午後の未の刻(2時)までははげしい戦いでしたが、その後は総崩れとなって、申の刻(4時)には、今川軍の松平甚太郎家重は降伏を申し出ました。早春だからすでに陽射は西に傾きかけていました。ここに勝利の鬨の声をあげ戦いは終わりました。守将の責任者松平甚太郎家重は戦いのルールでは切腹させるところでしたが、切腹させずに縛り上げた上で緒川城に送り込みました。

今川方で降伏した者の内で名のあるもので信長に仕える

気のあるものは許し信長の配下に置きました。雑兵は丸坊主にして水野水軍の船にて三河方面に解き放ちました。織田軍の強さが今川の領地内に鳴り響くことでしょう。今川義元自らが設計し、今川の総力をかけて作った村木の砦はわずか一日にして陥落してしまいました。

 

十五 織田・水野連合軍が勝利する

 

織田・水野の軍兵の犠牲者はわずかに四十名ほどが戦死しただけで、傷ついたものもわずかな数でしかなかった。その傷ついたものはすぐに緒川城内に入れて手厚く看病をしました。

戦いが終わった後で、織田・水野の軍は村木村の北西の山陰で休息し、村人がさし出た勝利を祝っての握り飯・酒で飲食をしたので、その場所を後の人々は、「飯食場」(注1)と呼ぶようになりました。ここで信長は武将たちだけでなく雑兵に至るまで、酒を振舞いながら手を握りしめて皆の労をねぎらったと言われています。

 

八剣神社(村木砦跡に戦いの18年後に設立)

 

 

 

この村木砦はすぐに、信長から信元に気前よく引き渡されました。信元はすぐに水野清六郎忠守に後片付けと守備を言いつけました。普通は占領した信長が支配すべきところですが信長は未練もなく引き渡してしまいました。水野清六郎忠守は、すぐに命令を出して村木村出身だった長老の清水八右衛門と清水権之助兄弟にこの砦の後片付けと守備をさせる事にしました。この夜は信長も緒川城に留まり祝勝の宴をしました。

清水八右衛門は村木村の農民を集めて、砦内の片付けをさせました。壊れた建物はすべて焼き払ってしまいました。死体を集め、村木村の西にある窪みにまとめて葬らせました。その上に土をかぶせ、松の木を植えて目印としました。そこで後の人はそこを「首塚」(注2)と、呼ぶようになりました。

この戦いの前に、水野軍は緒川の八幡神社と入海神社で勝利を祈願しましたが、清水兄弟はそれとは別に、味方の戦勝を祈願して、八右衛門は村木村の八幡宮に、権之助は同村の八剣宮にお参りしていました。その後に、この村木砦は取り壊されますが、平和な世の中になって村木村を支配するようになると、それぞれ、それまで粗末な小さな祠でしかなかった八幡宮と八剣宮(注3)をそれぞれの氏神として立派な神殿を寄進し後々の世まで両神社は栄える事となりました。

八剣社の氏子には篠田・村田の姓が多くいます。恐らく清水家の家臣で村木村の港(当時はまだ臨江庵の場所)の管理をしていた武士と思われます

 

六年後の桶狭間の戦いで今川義元が死んだ後、この地方は平和になりましたので、村木の砦はすべてを打ち壊し、ならして畑として農民に分け与えました。死者の怨念が入っていたのか大根が良く実ったそうです。明治になって、鉄道を建設する時にこの村木の砦跡は線路を引くために切り崩され土砂を運んで線路の道床を築きました。鉄砲玉や人骨がいくつか出てきたそうです。

東側には広い塩田ができました。南側は田圃として開発されましたが、北側はその後も、堤防のない自然の流れにまかせた石ヶ瀬川の河口のままで葦の茂る荒地でした。その後徐々に土砂で埋まり、堤防ができ良田となったのは江戸時代も半ばになってからです。

注1::「いぐいば」と読み、今も東浦町森岡に地名が残っています。

注2::今も森岡の人の間でこの名は使われています。

注3::八幡社は今も村の鎮守の神様として村社になっています。八剣社は、村木砦の跡の畑と鉄道線路の間に祠が残っています。

十六 緒川城で勝利の祝宴を挙げる

 

その夜、緒川城内にて、織田軍・水野軍の合同の戦勝記念の宴会が催されます。首座には信長が座り、水野信元・忠守兄弟は、臣下の席におさまって会が始まりました。

信元が切り出して、

「戦勝おめでとう御座います。さすがに信長殿はお強い。お陰様で、我が水野家の領土は無事に守ることができました。しかも占領した砦までお渡しくだされ有り難う御座いました。今後も織田家に与力して、ともども繁栄したいと思います。よろしくお願い致します」

信長は、

「それにしてもこの緒川の地はさすがに遠いのう。那古野の城からここまで、知多半島を回ってきたら、二十五里(100㎞)以上あるではないか。水軍を利用できたからよかったが、二十五里とは京までの半ばを超える距離になるのではないか。京までは鈴鹿の峠を越えれば三十七里(148㎞)と聞いておる。同じ尾張の国なのに、とても我信長一軍では支配できない。そこで、今まで通り、水野信元殿には知多郡の土地を安堵するから、しっかりと三河を見張っていてもらいたい。知多郡はもちろん三河の土地はどれだけ取っていただいてもかまわない。部下としてではなく友軍としての付き合いをお願いしたい」

「有り難う御座います。身に余る光栄かと存じます」

「それで、とらえてある松平甚太郎家重も元康の親戚筋だ。

今は今川の勢いが強くて今川に与力しているが、やがて元康が独り立ちした時には有力な協力者になるだろうから、今回はこっそりと解き放ってしまえ、決っして首をはねるなよ」

「はは、折角捕まえた松平甚太郎家重を許されるのですか。敗残の将を殺さないとは腑に落ちません。戦国の世の習いには反しますが」

「かまわん。負けた武将をことごとく殺していたら、今にまともな武将がいなくなってしまう。雑魚ばかりになっては支配できる人間がいなくなり、戦国の世が長引くばかりだ。わしは戦国の世を統一するつもりじゃ。有能な者は残しておかなければならない。それよりか、見せしめのためやむおえないことだが、村木村の農民で今川に協力したものの首をはねよ」

「え、農民の首をはねるのですか。やむをえず、おどかされて今川の仕事をさせられた者共をですか」

「けじめをつけるためだ。武将も助け、農民もそのままにしたのでは天下へのけじめがつかない。今後の支配をしやすくするためには裏切ればどうなるかだけは示しておかなければならない。おぬしに任せるから、5人ほどは磔にせい」

松平甚太郎家重は、3日間土牢に入れられた後、解き放たれました。その後の行方はしばらく分かりませんでしたが、桶狭間の戦いの後で松平元康が三河を支配し始めると、元康の下にはせ参じ家来になりました。

信元の命令で、清水八右衛門ははたと困ってしまいました。これから自分が支配していかなければならない村木村です。農民で好きこのんで今川に協力したものはいなかったのです。やむをえず、涙ながらに首謀者5名を打ち首にしました。信長の残忍さはこの時からすでに芽生えていたのです。その後も多くの裏切りを経験した信長の心ができていく元となったのでしょう。

村木村では、今川に協力したか、しないかでいつまでも遺恨が残りました。犠牲者の遺族が後には「臨江庵を焼き討ちした」という伝説も残されています。そこで、信元の子孫の一人の水野氏が処刑場の跡に住み着き、供養塔を立てて、死者の冥福を祈り、さらには村人の融和のために尽力しています。

※注:今でもこの時の処刑場跡が残されています。水野信元氏の末裔が現在も住んでいて、その屋敷内にあります。立派な石碑も建てられて往古を偲んでいます。今も旧暦の1月24日前後には供養が行われています。処刑場の隣には死者の血を吸ったと言われる真っ赤な花を咲かせる椿の木がありましたが、平成二十(2008)年に惜しくも枯れてしまいました。その切り株の周りには枯れた椿の木から落ちた種から芽を出した若木が生えています。早く成長して元のような真っ赤な花を咲かせてもらいたいものです。

処刑場跡の供養塔

      

 

十七 信長は人質を望まない

 

さて、元の宴の席に戻ります。

「砦の地は元々水野の領地。水野家が与力してくれたお陰で、今川勢を尾張から取り除く事ができた。今後もよろしく頼む。間もなく尾張の統一もできようから、その後は今川勢を三河からも、駆逐する覚悟じゃ。それまで苦しいだろうが頑張ってもらいたい。しかしな、そこもとにとっては甥にあたる松平元康とはなるべく事を構えないようにうまくやってくれ」

「殿も松平元康には気をかけてくださるか。有り難う御座います。あやつも織田信長殿に劣らぬ優れものですので、今は今川の人質ですが、そのうちにお味方になられることでしょう。つきましては、水野信元の忠誠の証に那古野城に人質を出したいのですが」

すると、信長は、

「たわけめ、人質などいらぬわい。あのようなまやかしで俺はだまされないぞ。人質などさし出されても裏切るやつは裏切る。それよりか、兵士を出してくれ。もちろん武将も付けてな」

「戦となればいつでも水野の軍を差し出しますが」

「そうではない。俺の考えではな、我が軍の武将は今までの武士の様には領地に住まわせず、わしの部下はいつも一つの城下に住まわせ、日頃から軍事訓練を施して一つの軍隊として持っていたいのだ。今までのように家来には土地を分けてやらん。支配のための代官を置いて城に収穫物・銭を集め、各家来にはわしの方から給与として渡す。武士と農民をハッキリと分けたいのだ。一国に一つの城と一つの城下町があれば間に合うのだ。敵が侵入してきたり反乱があったりすれば、今回のように大軍として駆けつければ間に合うのだ。

家来のそれぞれに土地を与えたのでは、領地が増えるたびに武士が分散していってしまう。それで時が経ち世代が変わって縁が薄れ、戦国の世になってしまったのだ。それに軍事演習もまとまってできないではないか。いざという時に役に立たん。さらに、支配された農民もいつ軍隊にとられるかとびくびくして農作業にも熱が入らん。農民を駆り集めて作った一万人の軍隊より、日頃から訓練してまとまっている一千人の軍団の方が役に立つのだ。さらに、新兵器の鉄砲の威力はどうだ。安くないから家来が買うことは難しい。まとめてわしが購入して強力な鉄砲軍団を作りたいのじゃ」

と、一気にまくし立てて一息入れ、一杯飲み干すとさらに続ける。

 

十八 信長が水野忠守を家来にする

 

「おぬしら水野家も、刈谷・緒川・常滑・大高と各地に分けて、それぞれに武士を配属したのでは強い軍隊にはなれないし、いざと言う時には役に立たない。同じ一族といっても分かれて住んでいたのでは、世代が変わってしまえばだんだんと疎遠になっていってしまう。そのうちに他人と同じになり、対立も起きようものだ。

もう知多に敵はいないのだから、特にこの緒川は、刈谷とは指呼の間じゃ。農民を支配するための才能を持った代官を置いて、刈谷に戦える武士を集めておけば強力になるではないか。そこで、あまった弟の水野忠守をわしにくれ。百人ほどの兵士をつけてもらえばなお助かる」

「なるほど、人質より武将でございますか」

「これなら、そちが謀反を起そうものなら、同族の忠守めが先陣をきって、そちを攻め込んで来るであろう。同士討ちになってしまう。どうじゃ、人質よりよほどいいだろう。それに、そちも自分で動かせる軍隊が今より増え、わしも軍隊が増える。一石二鳥どころか一石三鳥にも、四鳥にもなるだろう」

「恐れ入りました。さすが信長殿。武士はまとめて置いたほうがよろしい様で。忠守は信長殿の考えをどう思うか。申してみよ」

忠守が、

「お若いのにさすが信長様、私の考えも及びつかないことで、喜んで信長様にお供仕ります。この緒川には、農民に親しまれ、武力よりそろばんに適した長老山田権兵衛がおりますので、それに城を任せて緒川の武士の半分は兄者にまかせて刈谷に住まわせ、半分を拙者が率いて信長殿にお供仕りたいと思います」

「さすが、忠守殿、決断が早い。早いついでに、よろしかったら、明朝、我が織田軍とともに那古野に向かいますかな。戦で亡くした三十人を越える百人もの精鋭を得たとあらば、今回の戦は満足じゃ。大勝利じゃ。明日の朝は、寺本を脅かせてから那古野に帰るから信元殿、後は寺本の花井を俺に与力するように説得してくれ」

忠守が、

「たしかにこの忠守は明朝より信長様のお供を仕ります。早速に人選をして、準備いたしますので、今夜はこれにて失礼させていただきますほどに」

水野信元は、

「かしこまリました。寺本に使いを送り、駄目なら自分でおもむいてでも説得いたします。今回の戦いぶりを見ればもう知多地方で今川にくみするものはなくなるでしょう。それにしても『種子島』の威力はすごいものですな。あれなら一度撃って次に撃てるようにするのに時間がかかって、役に立たないと思っていた種子島も戦に役立ちますな」

「なあに、あれはまだまだ序の口じゃ。今にもっとたくさんの種子島を集め、種子島軍団に仕上げるつもりじゃよ。一丁や二丁では役立たないが、何百丁と集めて訓練し弓矢のようには一度に撃たず、三段か四段に分けて打ち込めば次々と発射できる。近いうちに種子島が戦の主力になる時が来るぞ。おぬしもせっせと種子島を買い集めるが良い。そういえば、この水野領では、塩がたくさん取れて儲けているようだが」

「はい、確かに、幸いに衣ヶ浦の海は遠浅の海にございますれば、せっせと塩田を作って増産に励んでいます。しかし、なかなか売るのに手間・隙がかかりまして」

「そうか。それならまもなく清洲城が取れるので、そうすれば尾張を全部手に入れるはたやすいこと。その暁に、清洲の町は津島港のように『楽市・楽座』にするつもりじゃ」

「は、なんと申されましたか」

 

十九 信長が天下支配の方針を示す

 

「楽市・楽座じゃよ。それはな、商人なら誰でも自由に商売できるようにするのじゃよ。今までは、商人といえども武士のように縄張りがあって、

『座じゃ、株仲間じゃ』

と言っていては、商人の出入りが難しく商品も人も集まりにくくて売れ行きが悪い。「座の権利」を作って売って入る収入より、より多くの商人に開放して自由に商売をさせてたくさん儲けさせてその中から運上金を取れば、いくらでも儲かる。

各地から人も集まるからついでに全国の情報も入って、間者を放たなくても相手の動きが分かるようになる。逆に間者が入り込んできたら俺の名前を全国に宣伝できるし、いいことだらけだろう。おぬしも清洲に塩をできるだけたくさん持って来てどんどん売ってドッサリ儲けて種子島をそろえよ。そうすれば我が軍はもっと強くなる」

「は、たしかに。儲かりそうな考えですな。早速に家老の山田権兵衛に命じて塩をもっと増産させます。それで種子島をたくさん買いそろえます」

「その山田権兵衛とやら面白そうなやつ、一度会って見たいものだが」

「は、末席に控えておりますので、すぐにこれへ呼ばせますが」

「そうかそこにいるか。こちらへまいれ、ここはおぬしが城代になる城じゃ遠慮は要らぬ。もっと近くに」

山田権兵衛は前に進み寄って、信長に近づき、

「水野信元が家来にて、今は、水野忠守様に使えています山田権兵衛で御座います。以後お見知りおきを」

「そうか。わしの申した事をそちはどう考える」

「は、殿様の考えには感服いたしましたが、一部私には合わないように思います」

「どこが不服か」

「不服ではございません。考え方の違いで御座います。我が家は先祖代々水野の殿様よりも早くからこの緒川村に住み着き、『士土(しど)合一(ごういつ)注1の家訓の基に農民と共に緒川村を栄えさせてまいりました。お陰様で、この緒川村知多半島で一・二を争う広い土地を持つことができました。米・塩などの収穫もほかの村よりたくさん生産できています。しかし、我が家の家訓では平和な時にしか役に立たないと思います。この乱世を戦い抜く事はできません。

そのため、水野の殿様や織田の殿様のように才力や武力ある人に仕え、後ろで農民を働かせて増産に励み、農民も安心して働けるようにして能力ある若者を育てては、殿方に差し出すのも大事な役目かと思いますが」

「そうだな。人間にはそれぞれ才能があるから、武力に優れたる者は槍を取って戦をし、算盤に丈たるものはそれを後ろから助ける。それぞれの才能に合わせた生き方をすることが世の中をよくする源じゃ。せっせと励んで、戦のない世の中を作るために、協力してくれ」

「早く世の中が織田信長殿の手で統一される事を祈っています。しかし、世の中が統一された平和になった後の武士はいかがなりましょうか。戦もなくなり、訓練にも身が入らなくなり、庶民からかけ離れた城下町に住んでいては、農民の心がわからなくなります。都に住む貴族の様に権力だけ振りかざして、堕落してしまうのではないでしょうか。それを心配しております。それよりか、我が倅どもも間もなく戦場に出られる歳と思いますので、その節はよろしくお願い致します」

「しかと。そちの息子達が経営に才能がないと分かれば、引き受けよう。戦には体力さえあれば誰でも出せるが、銭勘定は才能がいるからな。よく分かった。しかし、まだ尾張も統一できないのにもう天下を統一した先のことまで心配してくれるのか。それにしても難しい問題だな。天下を取るまでの宿題としておくか。ご苦労であった。緒川の支配を頼むぞよ。他の支配地の見本とするからな」

注1::農村は武士(士民)と農民(土民)が一致協力しあって成り立つ。

 

二十 寺本を襲撃して那古野城へ戻る

 

次の二十五日には、夜の開けきらないうちからもう織田信長は水野忠守も連れて出発し、寺本の城の周りを略奪して威嚇し、今川へ与力すると村木砦のようになるぞ、と脅かして大高の港から熱田の宮の港まで春風に揺られて舟で渡り、その日のうちに那古野城へ引き返しました。

寺本の花井氏は後に、水野信元の説得により織田信長に与力することになる。知多半島に兵を出して各地の小武将をすべて討ち取ったり、家来にしたりして、すべて水野信元の勢力下になりました。織田信長は後ろに気を取られる事なく尾張の北へ侵略して、尾張を統一する勢いを早めて、五年後には完全に尾張一国を支配下にまとめることができました。清洲の城に拠点を構えると、『楽市・楽座令』を出し商売を自由にして商業を盛んにし、運上金を増やすことができました。

尾張の統一が終わった次の年に、今川義元の大軍が押し寄せてきましたがこれを桶狭間に迎え撃つことができたのです。これも全て村木砦の戦いの惨敗のお蔭で今川義元の上京が遅れたためです。

桶狭間の戦いを迎える時には尾張の大半の武士を清洲の城下に集めていて、よく訓練が行き届き直属軍はわずか三千人であるが精鋭であって、三万人の兵を持った義元を打ち砕く事ができたのである。

 

二十一 信長は那古野城を返してもらう

 

二十五日夕刻には、織田軍は、行きより増えた軍勢で、しかも疲れを見せずに意気揚々として那古野の城に戻ってきました。那古野の城を預かっていた美濃の衆の安藤伊賀守範俊を初めとする一千の美濃衆はあっけにとられました。美濃の衆にとってはどうせあと二十日位はかかるだろうとのんびり構えていたのに、この信長の行動の速さを見てびっくりしました。わずか五日間で往復してしかも三度も戦をして帰ってきたのである。

お濃と安藤伊賀守範俊が大手門に迎えに出て、まずはお濃が、

「勝ち戦、おめでとう御座います。いつもながら早いお帰りで。城は無事にこの父道三の忠実なる家臣の安藤範俊が守ってくれました。殿からもお礼を言って下さい」

安藤範俊も続けて、

「おめでとう御座います。それにしても早いお帰りで。我が美濃の衆ではとてもこのように素早く行動することはできません。さすがに道三殿のお目にかなった信長殿。無事に今川を退治できておめでたいことです」

「いや、いや予定より一日遅れてしまったわい。もっと兵を鍛えなければいかん。そちには留守居をしてもらいありがたく思う。いずれ道三殿には、

『この恩には後日報いるつもりだからよろしく』

とお伝えください」

安藤範俊は驚いて、

「これだけ早く勝利を挙げてもまだ足りないと申されるか。どれだけ早く行動したら満足なされるのか。さすが道三殿の婿殿だ。明朝早々に引き上げますので、今夜は城外で野営させていただきます」

 

 

 

二十二 道三が信長を恐れる

 

安藤伊賀守範俊は兵を率いて美濃の斉藤道三のもとに二日がかりで、九里(36㎞)の道を帰っていった。来た時よりは一日早く帰りました。少しは信長軍のまねをしたのです。一千人もの大軍が行動するにはこれでも早いほうでした。三日くらいかかることが当時の普通でした。

安藤伊賀守範俊は帰城するや直ちに、斉藤道三に、信長の行軍の素早さ・戦いぶりについて報告をしました。

「とても城を乗っ取ろうという隙はありませんでした。余りにも見事に城を空にしてすばやい動きで駆け回り、あっさり勝利して軍隊を増やして帰られました。お濃殿も、美濃の援軍に安心しきった様子で、少しも疑うことなくすべてを私めに預けてしまいました。あっけにとられてしまい、どうしたらこの城が乗っ取れるかわからなくなってしまいました。

乗っ取ろうにも五日間は私が領主でした。それ以上には取るものがございませんでした。城を明け渡す時にも、お礼を言っただけで城内を改めて点検しようともしませんでした。完全に信長様の方が私めより上で御座いました」

道三の言うには、

「うむ、さすがにわしが見込んだ婿殿だ。隣の国にこのような男を置いておく事は末恐ろしい事よ。わしが亡くなった後で、わが軟弱なる子供たちは、この信長の下にひざまずく時がやってくるだろう。あまり恩に報いて欲しくないものよ。わしが思い願ってきた『国取り物語』は婿殿がかなえてくれる事となるだろう」

と嘆きました。その後に道三は、自分の息子の斉藤義龍によって殺されてしまい、道三が予言したように信長が美濃の国を全部平定しました。すなわち、道三殿の仇を打って、道三の財産を道三の娘のお濃に返してもらったのです。

「我が大事な舅である道三殿の仇を打つ」

という名目を信長に与えてしまったのです。歴史に「もしも」はないが、道三が殺されることなく生きながらえていたら、信長の美濃占領は遅れて京へ上るのも難しくなり、天下統一はできなかったかもしれません。

それに対して、村木砦の落ちたことを聞いた今川義元は、怒りが先に立って、信長の強さを学ぶことができなかったのです。

「畜生め。油断してしまったから負けたのだ。これからは、こせこせとした戦いや謀略を使って領地を増やすより、わしが先頭に立って、大軍をもって一気に踏み潰して京に上ろうではないか」

と考えて、三万もの大軍を率いての上洛の準備をさせる事となりました。桶狭間の戦いの六年前のことでした。これが今川義元の没落の始まりとなったのです。

 

 

 

二十三 信元が尾三同盟の仲立ちをする

 

刈谷の城主水野下野守信元は、緒川の武士のほとんどを刈谷に移し、城下に「緒川町」(注1)を作って住まわせ、信長にならって、他の同族の家からも武将を集め、ひとつの軍団として専属の軍隊を訓練しました。緒川城には留守居役としての五十名ほどしか武士は残らず、早舟が用意され、さらに種子島の火薬を利用して今までより強力な狼煙台を緒川・刈谷の両城に作って緊急時に知らせあえるようにしました。これが三河地方に花火が栄える始まりとなりました。

そして、信長の配下のもとに、その威力を後ろ楯にして、知多郡の中で残っていた小大名をしたがえ、三河の碧海郡、加茂郡、幡豆郡へと勢力を広めていきまた。最も拡大した時で水野一族合わせて二十万石分の領地を支配することができました。

名目上は水野忠守が緒川城の領主でしたが、彼は那古野の城下に住み信長の家臣として活躍しました。竹内主計頭が緒川城の城代家老となったが、城内には住み付かず緒川城と向かい合わせになる谷ひとつ北にある先祖代々住み付いている「高藪の屋敷」に住んで支配しました。この屋敷は城のように豪勢であったが、農民の出入りは自由にできまるで村の集会所のようであり「高藪のお城」と農民からは呼ばれ親しまれていました。緒川城はあくまでも水野家の城として管理され続け、殿様の帰るのを待っていたました。

緒川村の周りでの戦はなくなり、農兵の分離が進み、平和の中で、竹内主計頭とその子孫の采配により、農民は農作業・塩造り、漁業そして海運を行って繁栄していきました。

そして能力ある若者を織田・水野の軍にさらに後には徳川の軍にも差し出し、信長の全国統一のための陰からの支えとなりました。以後、江戸時代に至るまで城主が代わっても同じように居住する城主なしでも平穏無事に暮らせました。

永禄三(1560)年、桶狭間の戦いの後に、独立した松平元康は、何度か伯父の水野信元と石ヶ瀬川を含む衣ヶ浦にて小競り合をしましたが、本格的に戦ったのでなく、両軍の力試しをしただけでした。

永禄五(1562)年に水野信元が織田信長と松平元康(後の徳川家康)の仲を取り持って尾三同盟を結ばせました。そのお陰で、水野信元は領地が両者に挟まれているためこれ以上の領土拡大はできなくなってしまいます。しかし、彼の領地からは戦がなくなり平和になりました。そのためその民力は、干拓地の水田・塩田などを着々と増やし、他の地方より一足お先に、平和で豊かな土地となっていきました。

けれども、水野信元が武士としての勤めを捨てたのでなく、領地は安堵され、ある時は織田信長にある時は徳川家康にと援軍として出陣し戦闘にて多くの手柄を立てました。両者による全国統一の手助けをしました。自分は領地を増やす事はできなかったが、兄弟・親族や子孫を次々と、有力家臣団として、信長あるいは家康に送り勢力を伸ばしていきました。両家にとっても、さらには後に天下をとる豊臣秀吉にとっても味方に引き付けたくなる有力武士軍団でした。

しかし、水野信元は長篠の戦で、武田軍を滅ぼした後で、織田信長の家臣の佐久間信盛の讒言(うそ)により、織田信長の命令で岡崎城の徳川家康を訪ねた時に暗殺されてしまいます。その原因が水野の領地でたくさん取れた塩を武田軍に送ったという讒言でした。

それにもめげず、水野家はさらに有力武将を送り続けて、やがては徳川将軍を松平家とともに支える、徳川幕府にとっての一番の親藩・譜代大名へと成長していきました。徳川家は松平家と水野家とによって支えられてできた将軍家です。徳川の徳は松平氏の元祖「徳阿弥」の徳で、徳川の川は水野氏の先祖の「小川氏」の川と言う説もあります。

徳川家康が「先祖は源氏である」と言い出したのは関が原の戦いの前後になってからで、征夷大将軍になろうとしたためです。その時になって、はじめて新田源氏の中に「得川」を見つけて、こじつけてそこから源氏としての系図を作成させたのです。

注1::刈谷市の元城下町部分に最近まで「緒川町」と呼ばれる地名が残っていた。

                    (完)

参考 東浦町誌資料編3 中世 群樹捕手城責写(むらきとりでしろぜめ)  間瀬博夫蔵書

    図説織田信長 西ヶ谷恭弘著 ネツメ社

  信長公記 首巻

平成十七年二月二日

平成二十一年二月七日修正

平成二十四年二月二十一日修正

 

 

※注 これは歴史小説です。歴史書ではありません。 歴史書は歴史的事実をいかに正確に記すかと努力します。歴史的事件は同じでも、やった側とやられた側では全く違った記録になります。普通は勝者側だけの記録が残ります。

   歴史小説は主な歴史的できごとを中心に、筆者の想像力と創造力によって読者の関心を引くように、記入した物、歴史的事実とはかけ離れるものもあります。やむおえないことです。

 

 

 

 

 

 

 

桶狭間余話

 

 

 

桶狭間の戦い  永禄三(一五六〇)年五月十九日

時      同年年五月十九日~二十一日

   

 

一 鳴海城を守る岡部五郎兵衛

 

永禄三(1560)年五月十九日に、駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元は、三万の大軍を率いて上京せんものと、三河から尾張に入り、桶狭間の近くの田楽狭間であえなく最期をとげてしまった。世に言う桶狭間の戦いである。この戦いについては多くの有名作家による有名な物語があり、ここでは省略する。その戦いの余話を物語るのである。

この戦いによって負けた今川軍は、総崩れとなって、三河へ・遠江へ・駿河へとチリジリばらばらに散って逃げていきました。大将の義元は討たれましたが、三万の大軍のうち本体を除くほとんどの軍隊は一戦も戦わずして、敗退していったのです。大将が亡くなると組織されていたはずの軍隊も只の烏合の衆となってしまいます。

その戦闘意欲のなくなった無残な今川軍の中で二人の武将だけは、冷静に物事を判断でき、今後の事を考えて行動しました。ひとりは大高の城にいた松平元康(徳川家康)であり、もうひとりが鳴海の城にいた岡部五郎兵衛元信です。

愛知郡鳴海村(名古屋市緑区)は、東海道筋にあり、後に東海道五十三次のひとつの宿場町になる。当時からすでに、三河・関東方面から京都へ向かう重要な道筋であり、その海道の横の小高い台地に鳴海城がありました。その城の東十町(約1100m)ほどのところに分かれ道があり、北へ行けば鳴海の城下を通って宮(熱田)へ行け、南へ行けば大高(名古屋市緑区)を通って、知多半島に出る道が通っていました。しかも、大高から巳の方角(南南東)に下れば、知多半島の東海岸(東浦街道)につながり、未申の方向(南西)に下れば知多半島の西海岸沿い(西浦街道)へと道はありました。

その重要な鳴海の城には、水野と姻戚関係にあり、織田信長の傘下にあったはずの山口左馬助が領主でしたが、今川の三万の大群が押し寄せて来る一年前に、今川方に寝返ってしまいました。この鳴海城へは、今回の出陣で今川軍の最前線として岡部五郎兵衛が派遣され、千人の軍隊が鳴海城に入り込んで守備固めをしました山口左馬之助の軍隊は三百人ほどで、合わせて千三百ほどの将兵で守っていました。運命の5月19日がやってきました。

正午を過ぎても信長が襲撃してくるとは夢にも思もっていませんでした。信長軍が三千人程で、はげしい雷雨の中をこの鳴海城に気付かれずに脇道を通過して行ったのですが全く分かりませんでした。それよりも、今夜の今川義元の宿泊が大高城に決まり、鳴海城に来ないで、その手前で脇にそれていってしまう事が気に入らなかった。どうせならこの鳴海に泊まってくれればいいのにと思っていた。

それで、沓掛(豊明市)から来て大高へと、進んでいく道筋への警備をする事ばかり考えていた。警備の見張りが東に重点を置いていた時にはげしい雷雨となり、見張りがおろそかになったところを、信長軍は北の山陰沿いに音を立てずに通過して行ったのです。

はげしい風雨になったので、岡部五郎兵衛は、どうせ今川義元様のやって来るのは遅れるだろう。きっと、有松あたりで雨宿りをしているだろうから、ここを通過するのは未刻か申刻(2時から4時)ごろになるだろうと、名前だけの領主山口左馬之助と酒を酌み交わしのんびりしていました。

 

二 岡部が義元の死を知る

 

夕立も上がり、夏の暑い日差しが再び照らし出して、そろそろ本隊が来るはずだと思っていました。未刻(午後2時)になろうかという時に、大高との分かれ道に立たせて置いた見張りが城に駆け込んできました。後から十名ほどの騎馬武者が哀れな姿で、着いて来ました。

「大変です。御屋形様、今川義元殿がたった今、織田信長の奇襲攻撃で首をはねられ、討ち死になさいました」

と、駆け込んできた。

周りにいたすべての者が一瞬びっくりし、奇声を挙げた。

「まさか、本当か」

岡部はすぐに立ち上がり、さほど広くもない城中を大手門に走っていった。周りの千三百の兵は騒ぎ出した。見張り番の後ろから来たのは、今川義元の近習を勤める実の弟の岡部元永と従者であった。

「無念だ。信長にやられた。雨宿りを兼ねて昼食をとっているところを襲われた。本陣を一気に突かれた。周りにいた味方の軍は義元様が首をはねられるまで全く救援に来なかった。風雨の音で誰も気が付かなかったのだ。我らが奮戦したが、多勢に無勢。瞬く間に討ち取られてしまい、我らは命からがら逃げてきたのだ。

せっかくの三万の大軍もまともに戦ったのは、精々二千人、しかも鎧・兜をつけるひまもなかった。義元殿が討ち取られたと聞いて、みんな三河を目指してチリジリに逃げ出してしまった。一度崩れたらもはや止めようもなくなってしまった。我らだけは皆とは逆方向の、この鳴海の城へ逃げれば兄者がいると駆け込んできたのです。すぐに信長の大軍がここにも押し寄せて来ると思います。準備をして下さい。

岡部五郎兵衛は、すぐに考え込んだが、物見を出し大高の城に使いを出した。しかし、この使者は城を出るとすぐに逃亡して行方をくらましてしまい、大高の城には正確な情報が入らなかった。

信長を裏切って今川に与力したこの城の城主山口左馬助はすでに怯えきっていたし、山口左馬助の兵たちはもう逃げ出そうとしていた。大手門を急いで閉め、山口左馬助を奥の間に閉じ込め、弟のの傷の手当をしながら次の情報を待ちながら考え込んだ。

「ここで一戦を交えるべきか。それとも黙って通過させるべきか。あるいは逃げ出すべきか。信長の軍はどれだけいるのか。そんなに多いはずがないだろうに」

岡部元永は、

「信長軍はおそらく三千人ほどだろう。御屋形様の首をぶら下げてまもなく凱旋して来るはずじゃ。行きにこの城に気付かれなかったとは、どこを通ってどこから現れたか知らないが、戦を終えてから来るのだから、勝ったとはいえかなり疲れきっているだろう。ここで篭城していれば、おとなしく通過していくかもしれない。あるいは、篭城が長引けば、逃げ帰った今川軍が引き返してくるかもしれない」

五郎兵衛が、

「篭城と言っても、逃げた今川軍がもどってくる事はまずないだろう。それに、この城には食料がない。三日も経たずに食料が尽きてしまうのではないかな。隣の大高城には一昨夜五月十七日に松平元康殿が救援の食料を持って来たそうだが、この鳴海の城には救援物資は届いてない。山口左馬助が蓄えていた食糧は、わずかなもので、我が軍千人が七日も前から駐留しているからほとんど食べつくしてしまった。しかも他人の物だからと贅沢に使ってしまったわ」

そこへ第二の物見が帰ってきた。

「申し上げます。もはや周りには今川軍は一人もいません。織田信長軍の先頭の武将が持つ槍に、今川殿の首と思われる物をぶら下げて堂々と引き上げてまいります。その軍勢は三千人ほどかと思いますが意気揚々としています。今川軍と違ってきらびやかさはありません。まるで野武士の軍団かと見間違えるほどです。追っ付けここに来るものと思います。いかがいたしますか」

「うむ、して相手は疲れていそうか。戦って勝てそうか」

「篭城するなら持ちましょうが、野戦になったら勝ち目は少ないと思います。篭城して、大高の松平元康殿と鵜殿長照殿に援軍を頼めば信長軍を挟み撃ちにしてあるいは勝てるかもしれません」

「難しいところだな。しかし、我が今川軍にも骨のある武将がいることを見せてやらなければ気に食わない。おう、すでに、そこに信長軍が見えてきたぞ。全軍配置につけ。いつでも攻め出せるようにせよ」

 

三 岡部が義元の首を取り返す

 

五郎兵衛は戦う決心をして、鳴海城の開け広げた大手門の中央に堂々と立って、信長軍に呼びかけた。岡部五郎兵衛の後には、騎馬部隊を始め千人の軍が今にも飛び出しそうに構えていた。二十間(36m)ほど離れた門の下に信長軍の先頭がやって来た。

「そこへ来るは、織田信長の軍勢と見たが、織田信長はいるか。我は、今はなき今川義元様の一番の家来、岡部五郎兵衛元信である。出会え」

なんと、先頭からわずか三人目にいた信長が門前に出てきて、

「おう、わしが織田信長だ。今川にも勇気ある武将がいるものだ、わしに立ち向かう気か。これ、ここに義元の首はあるわ。もはや戦いは終わったのだ。おぬしも、早く駿河に帰られよ。もはや今川勢は誰も残っていないぞ。ここを無事に通してくれれば、こちらから戦を仕掛けないから、安心して引き上げるがよい。ここの領主の山口左馬助だけ突き出してもらえるかな」

「あいや、信長殿、その義元殿の首を返してはくれまいか。返してくれれば無事に御通ししよう。我らに引き上げよと言われても手ぶらではおめおめと駿河へは帰れない。信長殿としては、義元殿を討ち取れば事は済んだであろう。その首を清洲に持ち帰ってどうするつもりじゃ。

義元殿の死が確認できれば首はいらないはずだ。返してくだされ。さもないと我らは死を覚悟して一戦するつもりじゃ。今川にも勇気有る男がいることを見せて全滅する覚悟じゃ。たとえ我らは勝てなくてもそちらにも多大の犠牲が出るはずじゃ。ここの城主の山口左馬助はすでに怯えきって奥で震えている。あのような軟弱者では我が今川軍には置いておけない。持って行ってくれ」

部下に向かって、

「それ、山口左馬助をひっとらえて連れてまいれ」

信長が、

「そうだな。今川の首といっても誰にも見せるわけではないわ。清洲でさらし首にして棄てて置いても、どうせ、今川の間者が盗んでいくだろう。それくらいなら、ここで本物の義元かを確認してもらった上で、そちのような勇敢なる者に渡したほうが値打ちあるというものだ。義元もそちに拾われれば成仏できるであろう。今川にも勇者はいるものだ。それ、これがその首じゃ。どうだ、義元に間違いないか」

と、首を放り投げる。五郎兵衛がそれをすばやく拾って、

「は、確かに、これは今川義元殿に間違いありません。おいたわしや。無念じゃ」

「ではこれで我が軍は引き上げるから、明日の朝までにこの城から消えていてくれ。明朝にでも我が部下の誰かが支配に来るから、城は開け放してほかっておいてくれ。もしここに残っているものがいたらすぐに征伐されるだろう」

「確かに義元殿の首を受け取りました。こやつが山口左馬助です。お好きなように。そして今夜のうちに我らは引き上げますのでよろしく」

「おう、今川をあきらめて我に与力せよと誘いたいが、意志の強いそちでは無理であろう。またいつかどこかの戦場でそちの武者振りを見たいものだ。その時は遠慮せんからな。さらばじゃ」

と、織田軍は鳴海城の横の東海道を熱田へ向かって堂々と引き上げて行きました。

岡部五郎兵衛は、織田軍が引き上げていくのを静かに見送った。その軍隊は、戦勝の引き上げ時にもかかわらず、疲れも見せず、隊伍整然とし、騎馬部隊が三百騎、長槍部隊五百人・弓部隊三百人・鉄砲隊百人などが進む。しかし、隊列が堂々と通り過ぎていったが、その後から荷駄部隊は続いて行かなかった。

「信長め、一日で往復してしまったのは計画通りか。いかにも素早い行動なのだ」

信長軍は一回分の食料を持っただけで出発し、素早く行動してわずか一日で往復したのである。

岡部五郎兵衛五郎兵衛は、弟の岡部元永を呼び、

「今すぐに引き揚げじゃ。なんとか、義元殿の首を取り返したが、これだけでは不服じゃ。そこで、おぬしに、この首と我が軍を預けるから、早々に駿河へ引き上げてくれ。この城は火を放つことなく開け放しのままほかっておいてくれ。信長との約束だ」

「は、かしこまりました。して、兄者はいかがなされるので」

「さっきの信長軍を見たであろう。もう一泡吹かせてやらなければ気がおさまらんわ。わしは、今夜三十人ほどの忍びの者と近習を連れて消える。もうひと手柄を立ててから追っかけていく。駿府に着く前には追いつく事になるだろう。それまでたのむ」

 

四 水野信元が義元の死を知る

 

刈谷城に構えていた水野信元のところに、

「今川を討ち取った」

の情報が入ったのは、五月十九日の未刻半(午後三時)であった。織田軍に参加している弟の水野清六郎忠守から早馬がやって来た。信じられない。

水野信元は今川の三万もの大軍が押し寄せて来るとの事で、織田信長の部下に参列している名目上は緒川の城主である水野清六郎忠守の下へすでに息子の水野元茂と三百の兵を送り込んでいた。自分は緒川・刈谷に残る全軍五百人を集めて刈谷の城に構えていた。知立・鴫原城(刈谷市)に今川軍が構えていたからいつ攻めてくるか分からず安心できない。いざとなったら篭城するつもりである。

万が一今川軍の一部でも攻めてきたら、この刈谷城で頑張らなければならない。海に突き出た城だから陸からではそう簡単には攻められない。緒川からの物資の搬入はできる。信長殿が何かをするまでは持ちこたえなくてはと構えていた。幸いに今川軍は船団を連れて来ていない。海から攻められる危険はない。あくまでも正攻法で上京するつもりだった。

しかし今川義元にとって信長軍はすぐにつぶれるだろうと、刈谷など眼中にはなく寄り道をしなかった。

今川軍は東海道筋を知立から、境川を渡り、沓掛(豊明市)へと進んでいった。刈谷にとっては何事もなかったが、信長が負けたらどうせ、今川には降伏しなければならなかった。今川軍三万人に対し、水野軍を含めても、織田方は最高で五千人しか軍隊がいない。

しかも水野のように自分の城にも兵を置いて守っておかなければならない。空っぽの城ではいかに頑丈でもすぐに取られてしまうか火を放たれる。戦いに勝っても帰るところがなくなってしまう。

昼過ぎに、「信長勝つ」の知らせを受けて、信元は冷静になって考えようとしたが、興奮していて考えがまとまらなかった。物見役の者を呼び、知立から沓掛にかけての東海道を探らせに出した。

この城に残っている、弟のひとり、籐四郎信近を呼んだ。彼は武力より、歌や音楽の方が好きなようで、書物を読んだり、歌を詠んだりする事が得意であった。今度の信長殿へも弟の藤次を出すと言っても、文句を言わなかったし喜んでいるようだった。

 

五 信元が松平元康に使いを出す

 

この緊急時にも冷静な信近は、今川義元の首を取ったとの知らせを受けた時にも、

「やはり信長殿が勝ったのか。さすがに鍛えられた軍隊だけのことはある。今川軍は大軍であっても鍛え方が違う。その大軍はどうなったのか。尾三の国境付近は大混乱だろう。そういえば、従兄弟の松平元康(後の徳川家康)は大高城に入っていると聞いたが、どうなったのかな。情報は届いているだろうか」

などと冷静に次々と思っている事を言い出してくる。

信元が、

「そうだ。信長殿に内緒で甥の松平元康を助けたいが、元康のところに使いを送っても敵方だから、信用してはくれないだろうな」

「阿久比の久松家にいる姉の於大に連絡して、あちらから使いを出せばいいのではありませんか。於大は時々内緒で元康に使いを出していると聞いています」

「そうか、そうじゃ。すぐに緒川の城に使いを出して、城を守っている竹内主計頭(注1)に話をして、阿久比に使者を出させよう。今川のその後の情報が入らないうちは、まだわしが動くわけには行かないからな」

すぐに使いが出た。刈谷城の西側は海に面していて、城内に船着場もあり、衣浦の海を越えて緒川の入り江に入れば、そこが武家屋敷の端で、緒川城までは走れば5分もかからないで大手門に着ける。

緒川城へはいつでも早船に乗って使いが送れる様に船頭が待ち構えていた。わずか四半時(30分)もあれば情報は伝えられる。さらに、それ以上の緊急事態の時のために、狼煙台も両城に用意されていて、火煙が上がれば直ちに軍勢が押し寄せられる様に準備もできていた。それで、緒川城にはわずかな兵を置くだけでも安心できたのだ。

早船で使者を出した。四半時(30分)もすれば、阿久比経由での大高城へ使いが出発するだろう。

注1::竹内文左衛門家と竹内孫右衛門家の先祖

 

六 信元は鳴海城・大高城を占領に出る

 

そうこうしているうちに、知立に放った忍びの者から情報が入ってきた。

「東海道筋は大混乱です。逃げていく今川の敗残兵が各地に火を放ち、暴れながら東へ向かっています。西へ行く者は誰もいません。鴫原(刈谷市重原)にいた今川の守備兵も逃げてしまったそうです。

今に織田軍が攻めてくると、海道筋の農民や宿場の者も家財道具を持ってチリジリになって逃げている状態です」

「そうか。今川軍は総退却中か。やはり本当だったか」

緒川城の竹内太郎のところへ使いを出して、鴫原へ攻めていくかどうか考えて、落ちつかいない状態のところに今度は信長からの使者がやって来て、信長の言付けを伝えた。

「すでに知っている事と思うが、我が軍の大勝利じゃ。今川軍は総退却した。安心せい。そこで、鳴海の城が空っぽになっているから、明日までに守備兵を入れておいてくれ。だれも攻めては来ないと思うが、空では困る。清洲に帰って落ちついたら、武将のうちの誰かを差し向けるから、それまで守っておいてくれ。

それに、大高の城もついでに見ておいてくれ。空いていると思うからこちらも守備兵を入れてくれ。それに、大高城は知多郡内だし、元々水野家のものだったからおぬしに進呈しよう。しかるべき武将を選んで置いてくれ」

という内容であった。元々、大高は水野が支配していたが、今川に山口左馬助が寝返った時に事を知らないうちにだまし取られたものであった。

そこで、信元は、

「わしが行く、どうせ今となっては今川軍がこの城に攻めてくるわけないからな。信近や、この城を留守にするから番をしていてくれ」

「は、して何人ほどの兵を置いていってくれますか」

「敵はいないのだから、五十人もいればいいだろう。緒川の城も五十人だけで守っているのだ。全軍に近い五百人ほどを率いて、大高と鳴海の城を守らなければならない。信長殿には恩があるから、全軍で出かけて勢いのあるところを見せなければならない。信長殿に従っている忠守が帰って来たら大高の城主にして、鳴海の城は信長殿の武将に返してから帰って来る。五日もすれば帰れることだろう。その後で鴫原を攻め取ろう。どうじゃ。不服か」

「いえ、弟に城を持たせるとはうれしい事です。わたしは城など要りませんので、いつまでもこの刈谷の城に置いて下さい。仏門に入る気もさらさらありません」

「そうか、我が家にはあわない性格だな。緒川の竹内主計頭太郎のように、平和な里で農民とともに生きるか」

「そのほうがどうも私には性に合っていると思います。そのうちに緒川で修行させてください。その後でこの刈谷城の蔵を管理させてもらえば結構です」

「そうか、それではすぐに出発するとするか。兵達はすでに戦いの準備はできているから集めるのに時間はかからないだろう。食料などは後から取りに来させるから。兵を集め次第に出発するからよろしく頼むぞよ。それに、元康はちゃんと逃げてくれるだろうな。まだ大高にいるだろうか。早く使いの者が着けばいいが。まさか戦になることはないだろうな」

と言いつつ出陣して行く。すでに夏至のころでも日が暮れだしていました。

 

 

 

七 信元の使いが緒川城を出る

 

緒川城の本当の城主は水野信元の弟の水野清六郎忠守であったが、彼は常に織田信長の配下にあり、清洲の城下に屋敷を構えていた。緒川城を含め村の支配は城代家老の竹内主計頭太郎が取り仕切っていて、清洲へは食料や収益を送り込んでいた。それに優秀な若者を忠守の家臣となるように送り込んでもいた。

緒川城を預かっている城代の竹内主計頭太郎は状況が分からずに落ちつかなかった。万が一にも刈谷に今川軍が攻めて来たら応援に駆けつけなければいけないと、わずかしかいないが兵に準備させて構えていたが、情報が入ってこない。

「すでに今川軍は通過したころだろうか。信長殿はどうするつもりだろうか」

と、気をもんでいたそんな時に、「早舟が来る」と物見からの知らせが届く。すぐに刈谷城から早船が来て、使いが大手門へと走って来た。

「信長殿が、今川義元の首を取った。大勝利だが、松平元康には情報が行ってないかもしれない。すぐに、阿久比の於大に使いを出してくれ。織田方に知られないように元康に連絡をとって無事に逃がすようにしてくれ。手はずは任せた」

それを聞いた、竹内主計頭太郎は、

「そうか、さすがに信長様だ。しかし大変だ。すぐに使いを出そう。いや、わしが馬を飛ばす。城を空けても大丈夫だろう。阿久比城まではすぐだ。馬を出せ」

と、駆け足で馬屋に行き、馬を走らせる。

刈谷から緒川までは半里(2㎞)と距離は短いが、船で渡らなければならない。しかし、緒川から阿久比までは、乾坤院の前を通り、高根山の森の麓を通れば、一里半(6㎞)しかなく、馬を飛ばせば四半時(30分)もあれば行くことができる。時は五月十九日で昼間の一番長い時期。

珍しい昼の夕立もここでは少し降っただけでまた暑い夏の太陽がぎらぎらしていた。十分に明るいうちに着けるだろう。

緒川城の守りは息子の竹内親吉に任せる。親吉はまだ若いがしっかり者であった。わずかな武将たちは安心して武装を解除してそれぞれに家に帰って休息する。昨夜から緊張が続いていたが皆ほっとした。

阿久比は、知多半島一の大きな阿久比川が流れていて、今は米どころとして町の中央を堤防に挟まれて、緩やかに流れているが、当時は乙川村と岩滑村の間には衣浦湾の大きな入り江が入り込み、阿久比川はまだ簡単な堤防しかできず、暴れ川に勝てるだけの大きな堤防はなく、時々氾濫を繰り返していた。水田は少なく葦の原が広がっていた。人々は山々の狭い谷間に猫の額のような田と畑を作っていくつかの集落を作っていた。「阿久比十六谷」といって、小さな集落が十六も円を描いて並んでいた。その内の西の山すその「卯ノ山」という村に久松俊勝の城が作られて阿久比谷を支配していた。城と言っても少しの領地しかなく、大きな屋敷程度であった。隣の洞雲寺のほうが大きいくらいである。

緒川から阿久比の城までは山越えと言っても谷間沿いに道が作られ、海抜30m程の峠を越えるだけであった。なだらかなだらだら坂だけであった。馬で走れば三十分ほどで着ける。

 

八 信元の使いが阿久比城に着く

 

竹内太郎は阿久比の久松俊勝の城へまっしぐらに駆け込む。俊勝はこの時、信長の配下の水野清六郎忠茂の軍に加わって、一武将として桶狭間の戦いに参加していて留守であった。

於大は、3人の息子たち(家康の同腹の弟)とともに城内で留守を守り、戦いの結果を待っていた。昼過ぎには北の空が黒雲に包まれ、雷鳴も激しく鳴り響いたが、わずかにパラついただけであった。まだ久松ほどの身分では、自分から自宅へ伝令を出すことはできなかった。戦いの結果を知る由はなかった。夫の俊勝の生死も分からない。

「敵の今川軍にいる岡崎の元康も今年はもう十九歳になり、今度の今川の遠征軍には参加していることだろう」

と、思っていた。まさか阿久比から一番近い大高の城にいるとは露も知らなかった。その生死も分からず、心配しているところであった。

「願わくは夫俊勝も息子の元康もどちらも無事でありますように」

と、かなわぬ願いと知りながら仏壇に置いてある善導大師像の前で虫の良い祈りをしながら待っていた。そこへ、長老の平野久蔵が駆け込んできた。

「奥方様、只今緒川城より使者が参りました。しかも城代の竹内様直々に参りました」

「おおそうかえ、自ら来るとはおかしい、もしや夫に何かあったのでは、あるいは戦いのよい結果でも知らせに持ってきたのではないのか。すぐ御通ししなさい」

竹内太郎は走りこんでくるや、

「緒川の城を預かっています。竹内主計頭太郎で御座います。刈谷の殿様、水野信元様よりの火急の伝言に御座います」

「おう、これは緒川のご城代様、竹内殿ではございませんか。城代自らとは。して、戦の結果はどうなったのかえ、緒川城を空けても大丈夫なのかえ、夫は無事かえ」

「はいご安心くださいませ。我が軍の大勝利です。久松俊勝殿も手柄を立てられました。それよりか、於大様のご子息の松平元康殿は一昨日より大高城へ食料を運び込んだきり篭城中とのこと。義元討ち死にの知らせが入っているかどうかも定かではありません。尾張にただ一部隊だけ取り残された事になっているかも知れないのです。そこで、刈谷の水野信元殿が私を使いに出し、

『安全に岡崎へ帰れるように。大高の城に行って、元康殿を救出せよ』

との事で、ここに参りました。伯父・甥の関係とはいえ、敵方ですので相手は信用してくれないと思います。そこで、急ぎ於大様の証となる物を持って、元康様の心を知る者を連れて、大高城へ急ぎたいのです」

「そうかえ、信元の兄者も元康を心配してくれているのか。そうだ、平野久蔵なら、昔、元康が熱田に囚われていた時に、よく使いに行ってもらったから、元康も顔を覚えていようぞ。すぐに、わらわの『鳳来寺のお守り』を持って、出かけて下され。この阿久比城へ逃げて来るのが一番安全だと思いますが。わらわも一度元康殿に会いたいものじゃ。よろしく頼むぞえ」

すぐに鳳来寺のお守りを取り出して、竹内太郎に預けました。小さな城のこと、わずかなお湿りの後で、蒸し暑さをしのぐために戸は広く開けられていたから、部屋の中から、大きな声で、

「久蔵や、すぐに馬を出し、竹内殿と大高へ行ってくれ。松平元康殿をこの城へ連れてきてくれ」

と叫ぶが早いか、

「は、話は聞こえております。すでに馬を用意して待っております。それでは竹内殿急ぎましょう。奥方さまご安心あられませ」

と、言うが早いか馬に乗り駆け出して行った。

九 大高城の元康何も知らず

 

大高城は、元々水野一族のものであった。今回の今川義元の上洛にあたり、鳴海城の山口左馬助が今川方に寝返りをした時に、だまされて城主水野義政は殺されてしまい、城も乗っ取られてしまった。その城に、今川軍の先方隊として、一月ほど前から鵜殿長照が三千の兵を引き連れて占領していた。

それに対して、信長は、大高城のすぐ隣に、丸根と、鷲津に砦を築いて大高城を包囲した。大高城は頑丈にできていたから簡単には落とされることはなかったが、元々三百人分の兵のための城であって、城内に蓄えられていた食糧は底をつき、鵜殿長照は、義元に食料の補給を再三頼んだ。

そこで、松平信元が丸根と鷲津の砦に気づかれない様に兵二千人とともに食料を運び込んだのである。今川の人質として駿府に住まわされていた松平元康にとってはこの軍事行動が初陣であった。さらに自分の昔からの家来である岡崎衆を引き連れての初めての戦いでもあった。岡崎衆は自分の殿様が戻ってきたと命がけで戦ったので簡単に突破できたのである。それは二日前のことであった。

桶狭間の戦いの日の朝方、今川本隊から連絡があって鵜殿長照は三千の兵とともに、丸根・鷲津の砦に出陣していった。そして両砦は早くも午前中に落ちて、織田方はことごとく討ち死にした。大高の城からもその燃える煙を見ることができた。

同じく今川からの連絡で、

「今晩は、今川義元本隊がこの大高の城に泊まる予定であるから松平元康はお殿様の宿泊の準備しておけ」

と言ってきてから後は無しの礫であった。鵜殿長照軍も本隊に合流するためか、迎えに行ったのか砦を落とした後、東のほうへ消えていったきりである。

松平元康は、いらいらしていた。義元殿を迎える準備ができ、昼の休憩をしていると、激しい夕立がやって来た。一刻(2時間)ほどの夕立がおさまり、静かになったが、何の連絡もなかった。まさか、信長の襲撃があったとは露ほども考えなかった。鳴海城には、同じく先方隊として岡部五郎兵衛元信が城を守っているから、

「あるいは、予定を変更して、鳴海城に向かったのでは」

とも、考えたが、

「しかし、それにしても連絡ぐらいあるものを」

と、いぶかしがった

しびれを切らして、未刻半(午後3時)ごろには、物見の者を出した。そして、半時(1時間)も経たずに物見の一人が帰ってきた。

 

十 元康が義元の死を知る

 

「大変です。今川義元殿は、桶狭間において、昼食中に、激しい雷雨の中で討ち死に、三万の軍隊はチリジリばらばらになって敗走中です。織田軍はどうなったか分かりません。くわしい情報は只今収集中です」

これを聞いた元康は、

「え、まさか。先ほどの夕立の中で?」

と、予期せぬ報告に唖然とした。

「どうしたらいいのだ。今川軍はどうなったか?織田軍は攻めて来るのか?我はどうするべきか」

と、頭がぐるぐる回りだした。

「すぐに全部将を呼べ、物見の数をもっと増やして情報をたくさん集めてこい」

と命令し、まずは白湯を一杯飲んだ。そして心の中で、

「今こそ、岡崎の松平家は独立する好機だ」

と、叫んだ。すぐに各武将が集まってきた。情報もいくつか入ってきて、義元討ち死にはまず間違いないことが分かった。織田軍は清洲に引き上げたようである。鳴海城の岡部軍も城を捨てて逃げ出したようである。

武将が集まったところで、元康が切り出した。

「お聞きの通りだ。そこで早い話だが、我々はどうすればいいのだ」

本多平八郎忠勝・大久保忠俊・鳥居彦右衛門元忠・石川与七郎和正・阿部善九郎正勝ら、すべての武将が、

「今から直ちに岡崎の城へ帰るべきです。もはや今川の人質となっている必要はありません。今川から独立して三河の領地を取り戻すべきです」

主従とも同じ考えであったが、元康は、

「そうだ。わしは岡崎へ帰る。しかし、岡崎の城には今川の守備兵がいる。岡崎までの途中にも今川軍が体勢を整え直して待ち構えているかもしれない。せっかく自由の身になれたのに、ここで捕まってしまってはもはや二度と立ち上がれないだろう。誰かよい手立てはあるか」

と、皆を見回して叫んだ。

今川軍の情勢が不明のままでなんとも返事の仕様がない。そこへ、大手門の方から騒ぎ声が聞こえてきた。

 

十一 於大の使いが元康と会う

 

「何事だ。織田軍の来襲か。すぐ見てまいれ」

鳥居彦右衛門元忠がすぐに部屋を出て行き、様子を聞いてすぐに戻ってきた。

「敵方である刈谷城の水野信元の家来の竹内主計頭太郎と、阿久比の於大様の使いといって、平野久蔵というものが参っておりますが、いかがいたしましょうか。証拠だといって、このようなお守りを差し出しましたが」

「何、お袋様から。おう、これは『鳳来寺のお守り』ではないか。わしが生まれる時に母者が願掛けをしてくださったという大事なお守りだ。すぐに通せ、平野久蔵という名前は聞いた事がある。まず間違いないだろう。顔を見れば分かる」

「は、一応警戒は怠りなく。連れて参ります」

本多平八郎忠勝が、

「わしが殿の隣にいるから心配ない。すぐここに通せ」

狭い城のこと、すぐに二人が入って来た。

「わしが今日から岡崎城主になった松平元康である」

「はは、私は刈谷と緒川の城主水野信元様に仕え、緒川の城代を勤めます竹内主計頭太郎と申します。信元様からの伝言と阿久比におります於大様からの伝言を持って参りました」

「お懐かしゅうございます。私は、阿久比に城を構えます久松俊勝に使えています平野久蔵と申します。殿様には昔、熱田で何度も拝見いたしました」

「おう、覚えているぞ。そちの顔は。懐かしいのう。その節は本当に世話になった。あれから何年になるかな。礼を言うぞ」

「有り難う御座います。それよりか先を急ぎますので。於大様の言付けをお伝えいたします」

「うん、して、母者は」

「於大様におかれましては、混乱の中何が起こるかわかりませんので、急ぎ、大高の地を抜け出し、今夜は、阿久比の於大様のところに隠れて、情報を集めた上で、成岩(半田市)の港から大浜(碧南市)へ渡るが最善であろうとの事です。於大様は元康殿と会われることを最高の幸せと願って待っています」

「水野信元様は、伯父・甥の関係であり、ことのほか元康様を案じておられます。信長様の手前、表立っては動けませんが、この知多半島内は安心して行動されるようにとの事です。今川方の動きを見た上で、慎重な行動をして、岡崎に帰られるようにとの配慮で御座います」

「そうか。ありがたい事だ。これでわしの気持ちは決まった。しばらく別の間にて休息して下され。お疲れであろうから、湯漬けなどでもめし上がってくれ」

二人が引き下がって、別室にて休息をする。

元康は家臣にこう告げた。

「わしの腹は決まった。今から、阿久比の母者に会って来る。今、三河に入ったら、今川の落ち武者か武将に会ってしまい、駿府へ行かざるを得なくなるかもしれない。そこで、皆は、落ち武者たちとともに、知立を通って、岡崎に帰ってくれ。岡崎の城を何としてでも取り返してくれ。今川から派遣された武将や兵がいたら、だましてであろうと殺してであろうと追い払ってくれ。わしは今日から独立した三河国の大名松平元康である。お前たちには長い間苦労をかけたが、ようやく独立できる好機が来た。これを逃がすわけにはいかない。これからは松平元康のいう事だけを聞けば良い。独立した松平元康としての最初の命令じゃ」

本多平八郎忠勝が、

「あの者達のことを信じてもよろしいでしょうか。信元や久松に何かたくらみでもあるのではないでしょうか」

「心配するな。今まで十九年間忍耐してきたのだ。ここで裏切られるようだったら、どうせ『松平元康は、くだらん大将だった』で終りじゃ。お袋さんに十二年ぶりに再会して再出発だ。生まれ変わるぞ。これから大きく飛躍するぞ。大久保忠俊・石川与七郎和正はわしに付いて、阿久比へ来てくれ。鳥居彦右衛門元忠に全軍を預ける。直ちに岡崎へ帰り、城を乗っ取ってくれ。首尾よくいったら、大浜の『称名寺』に迎えを寄越してくれ。わしは情勢を見て、大浜の港へ船で渡る。急げ」

鳥居彦右衛門元忠が、

「分かりました、直ちに東海道を堂々と引き上げ、一刻も早く岡崎の城を占領いたします。全員総退却だ。いや、総攻撃じゃ。今川軍でなく、松平軍としての戦闘に参加できるのは何年ぶりの事だ。これで命を落としても本望じゃ」

大将不在で何度も厳しい戦いに参加させられてきた松平の家臣にとってはこれ以上のうれしい事はなかった。今度は大将不在でも最高に喜ばしいことであった。

「各々方いざ出陣じゃ」

「おおう」

 

十二 元康が母の於大に再会する

 

同じ十九日の夜、阿久比の久松俊勝の屋敷、母の於大の方と十二年ぶりに再会して、元康は涙にむせっていた。母も同じであった。

「松平元康は決心しました。義元の亡き後、ここで今川とたもとを分かって独立するつもりです。首尾よく岡崎の城へ戻れたら、まずは三河の統一をいたします。できれば、織田信長殿と同盟を結び、今川を滅ぼし、天下を統一したい。その始まる日に母者に合えたことは天の思し召しであろう。きっとやり遂げまするぞ」

「さすが我が子。その後にここ久松家で何人も子供をもうけましたが、お前様が生まれた時には、色々と吉兆が御座いました。鳳来寺の観音様のお告げもありました」

そこへ、久松家の三人の男の子が入ってきました。

元康のほうから声を出して、

「母上、この三人の子供たちは、私にとっては大事な同腹の弟で御座います。岡崎には兄弟がおりませんので、寂しい思いをいたしました。是非我が弟として、岡崎に迎えたいと思います。できることなら、母上も、義父の久松俊勝殿も我が松平の同族として、迎え入れたいと思います」

「おお、なんとうれしい事を。夫俊勝も喜ぶ事であろう。水野家・織田家とも仲良くして、共々、戦のない平和な日本を作ってもらいたいものじゃ。これ三人ともお前たちの兄上にご挨拶をしなさい」

「はい、平松佐渡守俊勝が長男の平松三郎太郎と申します。今年九歳になります。是非兄者のお供をして、兄者の手足となって働きたいと思います」

「おう。もう九歳か。後五年もすれば元服して立派な武将になれることだろう。しばらくは母者を頼むぞよ」

「はい、しっかりと守りますので安心して下さい」

「私は平松佐渡守俊勝が次男の平松源三郎と言います。よろしくお願いいたします」

「おうさすがに良い子じゃ。たのもしい。」

於大が、

「長福はまだ3つです」

「早く大きくなって元気に育てよ」

於大の方には、他に三人の娘もありましたが、この時代のこと、女は挨拶もさせてもらえなかった。

激しい戦いが近くであったにもかかわらず、この夜の阿久比谷は蒸し暑く、風の吹く気配もない中で、カエルの合唱が谷間に響き続けました。星空がきれいでした。

三年後に松平信康と織田信長が水野信元の仲立ちで同盟を結ぶと、元康は、水野信元に頼んで久松一族をもらい受けることになり、以後松平一族として活躍する事になります。

長男の三郎太郎はこの時9歳で、後に久松松平因幡守康元となり、二男の源三郎は7歳で後に久松松平豊前守勝俊となり、三男の長福3歳は後に久松松平讃岐守定勝となって、義父の久松松平佐渡守俊勝ともども元康の親族として一国一城の主となりました。

 

十三 五郎兵衛が刈谷城を落とす

 

岡部五郎兵衛は、寝待ちの月夜(十九夜の月)の中を、伊賀の忍びの者を連れて、鳴海から、東海道を下り、境川付近から道をそれ、明け方には、高津波村(刈谷市)の農小屋に隠れた。水野信元の領地に入り込んで刈谷城と、緒川城とその周りに忍びの者を放って、情報を集めた。信長大勝で、ひょっとして、水野一族に隙があるのではと狙いを定めてきたのです。

情報によると、なんと、刈谷の城を守っているはずの、水野信元は兵を連れて、岡部軍とすれ違いで、鳴海城と大高城へと出かけた後で城はほぼ空であった。しかも、刈谷の城を守っているはずの水野藤四郎信近は、

「どうせ誰も攻めてくるわけはないだろう。うるさい兄者もいないことだし、お雪のところへ行こう」

と、城を抜け出し、夕刻より熊村の愛妾お雪の許へしけ込んでいた。この情報をつかんだ岡部五郎兵衛は、

「これはいい事を聞いた。信近が城に帰る時をねらって、襲ってしまえ、ひょっとしたら刈谷城がもらえるかもしれない」

岡部の手勢はほとんどが忍びの者で、わずか四十人であるが、信近が城に入る時を狙えば、門は開かれて守りは手薄になるだろうと考えた。

当時の城は、守る手勢が少なくても、門を硬く閉じてしまえば、そう簡単に攻め込めるものではなかった。常日頃から緒川城には守備兵がわずかしかいなくても、刈谷と緒川の間で見張りあい、早船を常駐させていて、さらに緊急時には狼煙を上げて、危機を伝え合う設備ができていた。

今回は、刈谷城も信元が手勢のほとんどを引き連れて、大高・鳴海の城に行ってしまったので、刈谷城もわずか五十人程しかいなかった。それでも門を硬く閉じていれば一日や二日は持つはずであった。それなのに、城代の信近は愛妾のもとに消えていたという最悪の状態であった。

岡部はすぐに忍びの者共を刈谷城の周りに配置し、朝方に信近が城に帰るところを狙おうと手はずを整えた。

二十日の朝、辰刻(午前8時)になって、そうとは知らずに、信近はのんびりと昨夜のことを思い出しあくびをしながら、熊村を出て大手門にやって来た。信元がいたのなら、裏門からこっそり入るところだが、悠々と正面から入ろうとした。

「これ門番、わしじゃ信近だ。門を開けよ。」

門番がその声を聞いて戸を大きく開けた時に、信近の後に忍び寄った岡部五郎兵衛にぐさりと刺されてしまった。

「うわー。」

とひとこと叫んだが即死状態であった。岡部の手下たちは、すぐに門内に入り、門番を殺し、城内になだれこんだ。

城内には五十人ほどいるはずの水野の家来もほとんどいなかった。城代が遊びに出るくらいだから、わずかな家来たちも多くは、自分の屋敷に戻ってしまっていたのだ。数日前から、今川の大軍が来るかもしれないといって、武装して城に詰めていたので、「信長大勝」を聞いて、緊張の糸が切れてのんびりしてしまったのだ。

岡部五郎兵衛は、簡単に城を乗っ取り、本丸で休憩していた時に、「ドーン」と狼煙が上がった。うまく逃げ隠れていた水野の家来の一人が、なんとか狼煙台に行って火をつけたのだ。岡部としては船着場の船は占領したが、狼煙台があることまで知らなかったのです。「しまった」

その狼煙を見て、城下の自宅に戻っていた武将達があわてて城内に駆け込んできた。激しい斬り合いとなった。さらには、緒川城でもこの狼煙を見つけて、

「すわ、刈谷の城で異変が起きたぞ。急げ」

と、自宅に帰っていた将兵は、城より港に近いため、すぐに次々と早船に乗りこんで刈谷城へ向かった。わずか半里(2000m)ほど離れているだけで、すぐに城内の船着場に到着し戦いに参加した。

岡部五郎兵衛はせっかく城を乗っ取ったが、簡単に取れすぎてこちらも油断してしまい、攻め込まれて部下のほとんどを切り殺され、せっかく占領できた刈谷城から抜け出し、命からがらにして知立方面へ逃げてしまった。しかし、水野家にとっては、勝ち戦の後の油断から殿様水野信元の実の弟の信近を死なせてしまうという大事件になってしまった。油断大敵である。

 

 

十四 五郎兵衛が義元の首とともに駿河へ

 

一月二十日午前中に、東海道を知立から岡崎に向かって行く、まともな二つの軍団があった。一つはまだ夜の明けきらないうちに進んだ千人の岡部軍であった。その後、一刻(約2時間)ほど遅れて鳥居彦右衛門元忠率いる松平軍二千人の軍団が続く。しかも、こちらは今から岡崎城を取り返そうと、戦う気満々で鬼のような気迫を示しながら進んでいく。

昨日の夕刻から夜にかけて、敗走して行った今川軍はばらばらで、軍団としてのまとまりがなくいかにも戦いに負けた落ち武者の状態であった。所々で放火をしたり、食料を盗んだり、ひどい状態であったが、それとは違って、堂々と隊列を組み、規律あり、きらびやかな行軍であった。これが同じ敗走する今川軍とは思えなかった。岡部の軍団や松平軍と知る人もあったが、

「それ、織田軍が攻めてきた」、

と、逃げ出す村人もいた。そして悪いうわさは尾ひれをつけて早く伝わるものであるから、その間違ったうわさがすぐに岡崎の城下にも伝わり、岡崎城は大騒ぎとなった。城を守る大将は庵原元景で千五百人の兵がいたが、昨日の東海道を逃げていく今川軍を見て、何人かがすでに昨夜のうちに逃げ出していた。今朝になって織田軍の侵攻がうわさとなって流れて来たので、城を抜け出す者は数知れなくなった。

城代の庵原元景がいくら叫んでももはや城内の統率は取れなくなり、ついには残っていた三百人ほどの武将を連れて庵原元景も逃げ出してしまった。

岡部軍は岡崎の城を横に見ても寄ろうともせずに通過した。ぐずぐずしてはいられない。早く今川義元の首を駿府に届けなくてはならない。この夏の時期では首がすぐに腐ってしまうから。  

一方、刈谷城で散々な目に会った岡部五郎兵衛は、急ぎ駿河へ向かい、途中天竜川で弟の率いる自分の部隊に合流でき、その後は、信長に負けるものかと、岡部軍の先頭に立って、意気揚々と駿府城に入った。敗残兵の中で、この岡部信元の部隊だけが胸を張って帰城できた。

御屋形様今川義元の首を取り返したことで、後を継いだ今川氏真からただひとり褒美をもらう事ができた。

無残に逃げ帰った武将の集まっている前で、

「義元殿が殺されたとはいえ、これだけの武将がいながら今川軍が取り乱して逃げですとは何事か。殿の首を取り返しただけでなく、刈谷の城も一度は取ることができたのだ。だれかもうひとりわしの様な心ある武将がいたら、むざむざ、刈谷の城も取り逃がさずにすんだのに。残念だ。若君殿早く弔い合戦をいたしましょう。松平元康を早く駿府に呼ぶべきです。さもなければ早く討たないと取り返しのつかない事になりますよ」

と息巻いたが、氏真は父の仇を討つことはせず、独立した松平元康を攻めることなく、駿河・遠江の守護で満足し、怠惰な生活を送り、徐々に有力武将が消えていき、やがて松平元康と、武田信玄により滅ぼされることとなった。

 

十五 元康は常楽寺から大浜へ渡る

 

元康は、次の二十日には、阿久比の城から、成岩村の常楽寺へ向かう事になりました。阿久比川の河口の西にある岩滑村までは、緒川の水野家の支配下でしたので、竹内主計頭太郎の案内で白昼に堂々と馬に乗って出かけました。そして、阿久比郷の南の矢勝川を越えると、水野信元の家来の中山時勝の領地です。中山家にも於大の妹がお嫁に入っています。岩滑村の先の坂田(はんだ)村(半田市)の上入水神社(半田市住吉神社)から先は、同族の常滑に城を構える水野家の領地でした。

そこで緒川の城代の竹内主計頭太郎から前もって使いを出してありました。少し迷いましたが出迎えに来ていた家老の衣川八兵衛に無事に引き渡しました。次は衣川八兵衛の案内で、坂田村を越え無事に成岩の常楽寺に着くことができました。初夏の田植え寸前の田圃の間をのんびりと進められました。

この時の常楽寺の管主は、第八世の「典空顕朗上人光然大和尚」と言い、先の緒川・刈谷の城主水野忠政の妹で、水野信元の叔母の一人であった於良の子であった。(注1)於良は於大の方のように、政略結婚により、三河の国の幡豆郡吉良の庄(吉良町)の、赤羽城の城主高橋弾正に嫁ぎ、その間に生まれた子である。

武将にならずにお寺に入ってこの知多半島一の大寺院の管主になっていました。於大の方・水野信元にとっては従兄弟にあたる人なので、阿久比の於大の方とも行き来があり、今回も阿久比から連絡がしてありました。刈谷の信元からも、

「よろしく頼む」

と、連絡が届いていました。元康にとっては初めて会う相手だが、大和尚の心優しいもてなしに満足した。さらにこの和尚も三河の各地に使いを出して情報を集めていてくれた。夕刻には良い知らせが届きました。

「お喜びください。岡崎の城は無事に松平軍が占領できたそうです。今川の軍勢は、織田軍が攻めて来るとのうわさで、怯えて城を捨てて逃げ出したそうです。その空になった城に戦わずして松平軍は入ったそうです」

「そうか。ありがたい。ようやく自分の城に帰れるか。御世話になりました」

「あわてる事はない。暗くなってからの船は危険です。もう日も暮れてきますので、明日の朝、船を出させましょう。ご安心ください」

この成岩の常楽寺には徳川家康が生涯に三度来たと言う記録が残っています。一度目がこの桶狭間の戦いの後であり、二度目が、本能寺の変の後である。

本能寺の変の時に、家康は泉州(和泉の国:大阪府)堺にいて急変を聞いて、大和から伊賀を通り伊勢の安濃津から船で大野村に着き、知多半島の山越えをしてこの常楽寺を訪ねました。そのあと今回のように大浜に渡り無事に岡崎城に帰ることができました。

三回目は、天下を取ってからであり、京へ上洛する時にわざわざ寄り道をして、昔御世話になったことへのお礼参りです。この常楽寺ではその時はすでに管主は代替わりしていました。亡くなっていた典空顕朗上人光然大和尚の法要をして、二十石の寺領田を寄進して昔の御礼としました。

現在もこの常楽寺は参拝客で賑わっています。

注1::地元にて於大の妹の子供となっているが、上人の年齢が元康より若いのでは勘定が合わない。於大の叔母の子でなければつじつまが合わない。

 

十六 元康が岡崎城へ堂々と入城する

 

二十日、岡部軍が通過してから一刻(約2時間)ほど遅れて、岡崎へ向かっていた鳥居彦右衛門元忠が率いる松平の本隊は、矢作川を渡ってまずは松平家の菩提寺である大樹寺に本陣を構え、部隊を戦闘体制にしてあちらこちらに物見を走らせました。岡崎城に近づいた物見が城に近づくと、余りにもひっそりしていて、さらに進むと城は大手門が開け放たれて誰も残っていなくてびっくりしました。城を占領していた今川の軍兵は、あわてて城を捨てて駿河へ逃げ帰ってしまった後でした。

お陰で、戦いも何もなく岡崎城を易々と松平軍が取り返すことができました。鳥居彦右衛門元忠は、すぐに使いを大浜の称名寺に送って松平元康の帰りを待ちました。

元康は二十一日早朝には成岩の常楽寺から馬で成岩の港まで行って船に乗りました。常滑水野家の衣川八兵衛と大和尚にお別れをしました。記念にと、馬に着けてあった鞍と鐙を大和尚に贈りました。(注1)

松平元康一行は大浜の港に渡り、称名寺にて岡崎城からの迎えに無事に合流して堂々と岡崎城へ入る事ができました。ここに今川と縁を切り、独立した松平元康が誕生しました。時に、永禄三(1560)年五月二十一日でした。

三年後には、水野信元の仲立ちで、徳川・松平の尾三(織徳)同盟が結ばれ、信元からは母である於大の方と夫久松俊勝や子供たちとともに、岡崎へ送られて元康の元で幸せに暮らせる事となりました。やがて三河を統一し、遠江から、駿河を支配地にするとともに、織田信長の天下統一の手助けもして、その後は豊臣秀吉の後に天下を取る事ができました。その活躍の始まりがこの時でした。

注1::この時の鞍と鐙は、今も常楽寺の寺宝です。

平成十七年二月十日・平成二十一年五月修正