知多酒で乾杯

 

平成26年4月11日半田市観光ガイド協会総会・講演を基に

 

① 中埜酒造(株) 馬場信雄氏の経歴

 

  馬場信雄さんは中埜酒造の顧問をしながら赤煉瓦倶楽部半田の理事長をされています。馬場信雄さんは京都府舞鶴市の出身で、半田市にあるミツカン酢の関連会社である中埜酒造(国盛)に勤務し、65歳の現在は中埜酒造が経営している「酒の文化館」の顧問をして見えます。商売であり、そして嗜好家でもあるところから、「酒道」を学びこれを広めようと、酒の文化館などで講習会などを行って、日本酒、特に知多酒の愛好家を増やそうと努力しています。

明治初めには200軒以上あった知多酒の醸造蔵は今ではわずか6軒にまで減少してしまいました。その挽回策の一つとして、平成25年10月には半田市議会で「知多酒で乾杯を推進する条例」が制定されました。今後の日本酒の販売促進を願っています。

しかし、馬場さんは本職の知多酒の製造販売だけでなく、「半田赤煉瓦倶楽部」を1997(平成9)年9月に立ち上げて理事長を務めています。日本酒を広めようとしながら「カブトビール」の復刻版を販売しています。なぜそのようになったかには深い因縁があったのです。

馬場信雄さんのふるさと舞鶴市には信雄さんの2歳年上の兄さん馬場英男さんがいて、旧海軍の軍港であった舞鶴港には赤煉瓦倉庫群があり、この赤レンガを文化遺産として残し、保存・利用しようと「赤煉瓦倶楽部舞鶴」の理事長をしていて、さらには日本中のあちらこちらに残る赤レンガを保存しようと努力していたのです。

半田の赤レンガ建物で操業していた日本食品化工が撤退を決めた1994(平成6)年から、馬場兄弟などが動き出し、市長・議会・市役所職員の認識から変化させる手法を取り、横浜市の協力なども得て、見学会や講演会を行いました。2年後の1996(平成8)年に半田市が約30億円で購入することが決まりました。この間に3分の1ほどの赤レンガ建物が壊されました。この破壊が始まったころから活動が認められるようになりました。

赤煉瓦倶楽部半田ができるとこの赤レンガを広めるために「カブトビール」を復刻することとなりました。その他多くの催し物を行い年3回ほどの公開日を数回にまで増やし、半田の赤レンガも名前が知られるようになりました。

いよいよ2013(平成25)年秋から2015(平成27)年にかけて耐震強化を兼ねた改装工事を行って、2015年の秋には新装開店する予定です。どれだけの集客力ができ活性化するか今後の動向が注目されます。

馬場信雄さんのやるべきことはまだまだこれから忙しくなりそうです。

 

 

② 日本酒の歴史

  人間の歴史と共に酒(アルコール)は存在すると言われています。文明が発達すると、宗教或は貧困などにより禁酒された文化もありますが、日本酒は米を原料としますので、弥生人が稲作と共に日本に渡ってきた時から「日本酒」の歴史も始まると思います。しかし面白いことに、稲作とともに渡ってきた弥生人の中に「アルコール」反応で、酒の飲めない人々が混じっていました。東南アジアと東アジアにだけ存在するそうで、ヨーロッパやアフリカでは酒の飲めない人はほとんど存在しません。

  中国の魏志東夷伝の中に酒の事が記録してあります。酒を造ることも飲むことも「神事」として扱われています。米は貴重な食料ですので、貧乏人が簡単に作る余裕はありません。まだ米麹がなかったようで、神聖なるシャーマン(巫女)たちが蒸した米を「噛む」事によって唾液を入れることにより、醸すことができるのです。しっかりと噛んで壺などに入れて、10日程でデンプンが糖に変わり、さらにアルコールに変わるのです。

  大和時代には「酒礼」と呼ばれ、神人の供食文化が行われ、「五穀豊穣・無病息災」が求められます。酒だけでなく食事行為も神事として取り扱われます。

  奈良時代には中国から「米麹」が伝来してきます。朝廷の宮内省に「造酒司(みきつかさ)」が作られ、平安時代の延喜式には酒造方法や、お燗した酒が出てきます。祭事の酒の飲み方がやがて、公家の「酒道」へと発展します。

  それに対して、鎌倉時代からは武家の社会での酒の儀式も発達します。「式三献」と言って、「三々九度」の始まりです。やがて室町時代になると、各種の「道」が確立します。華道・茶道・香道などを始め、酒道も確立されていきます。

  江戸時代になると、米がとれ過ぎた時に米価が下がらないようにと酒造りを推奨しました。庶民にも嗜好品として飲むことができるようになりました。多い時には江戸に100万樽の酒が運び込まれました。1樽は4斗入り(72㍑)ですので、40万石の酒で、当時の江戸の人口が約百万人で、ひとり1年に1樽になりますが、子供や女を除けば、およそ1年で1石、1升びんで百本飲んだ勘定になります。

  明治時代になりますと、日本酒以外に、金持ちはビール・ウイスキーなど庶民は焼酎へといろいろな酒類が出始めます。また、年貢から地価の税金になり税金の増税分として「酒税」が急速に増加していきます。

 

③ 知多酒の歴史

  濁酒(どぶろく)などは昔から細々と造られてきたでしょうが記録は残っていません。戦国時代に、清酒の製造方法が奈良地方から伊勢を経て、大野湊あたりに伝播して、知多地方での清酒造りが始まったと考えられます。多い時には200軒以上の酒造蔵がありましたが、今ではわずか6蔵になってしまいました。秀吉が天下を取った後の、1592(天正20)年の大野地区の港町の「屋敷地検地帳」に、酒造りと、酒造業の商売が記してあります。

  江戸時代に、尾張藩2代藩主光友公は奈良から杜氏を呼んで酒造りを奨励しました。尾張藩としては米を増産するために、新田開発に努めますが、豊作時の米価が安定するように酒造業を奨励したのです。

1655(寛文5)年に、小鈴谷の盛田久左衛門が酒造(ねのひ)を開始します。1697(元禄10)年に知多郡で114軒の酒造業があり、4500石を製造していました。1軒当たりわずか40石ほどで、地元化、せいぜい名古屋あたりで販売していたのでしょうか。

1700年代になると江戸へ千石船で送るようになり、大きな酒造業が増え始めます。しかし、1800年頃には灘などの上方の酒に負けて、知多の酒は急速に減少します。しかし、幕末に近づくにつれまた知多の酒が江戸で多く売れるようになります。

初代中野又左衛門が中野半左エ門家の酒造「増倉屋」を引き継いだ時が1779年で、ここから数えると、240年ほどになります。また1844年に、又左衛門が持っていた「酒免許」を小栗富治郎に譲渡して「豊蔵屋」ができ、清酒{国盛}を作ってからは約170年になります。その冨治郎から、1909(明治42)年に、中埜家へ経営権が渡されて100年以上になります。「国盛」は「国の繁栄を願い、それと共にわが酒も盛んになりますように」と名付けられました。

1844(弘化1)年に、古場村(常滑市)の澤田儀平治が酒造業を創業する。(白老)同年に、亀崎村の天埜伊左衛門が酒造業を始める。(初夢桜)1855(安政2)年に原田酒造が創業される。(生道井)

1871(明治4)年に、知多半島に227軒の酒蔵工場がありました。1884(明治17)年には、酒造業が121軒に減り、石高は77127石です。酒税の導入により急速に酒造蔵が減少します。

1895(明治28)年に、緒川に野村酒造(幸娘)ができます。2012(平成24)年に、半田酒造協同組合は6軒だけになってしまいました。東浦町生路の原田酒造(生道井)・阿久比町植大の丸一酒造(ほしいずみ)・半田亀崎の盛田金しゃち酒造(金鯱)・中埜酒造(国盛)・常滑古場の澤田酒造(白老)・常滑小鈴谷の盛田(ねのひ)です。

  

④ 日本酒の種類

  かつての日本酒の種類としてはみなさんが良く覚えているのでは、特級酒・一級酒・二級酒の分け方がありました。しかしこの分け方はとてもあいまいだったのです。ただ税金をたくさん取りたかったので、級が上の方ほど酒税が高くて、級の下の方が安くできていました。級を申請するのは酒造業者でしたので、田舎の業者はどうせ高くしても売れないだろうと、おいしい酒でも「二級酒」だったのです。味の好みや、おいしさなどは考慮されていなかったのです。

  それが今では{資料3}の様に、しっかりした基準で呼び方を変えました。勿論違反すれば罰せられます。ただし、味や好みは人によって違いますので、品質でなく、自分の好みで選んでください。

 アルコール添加・醸造アルコールとあるのは、サトウキビだけからアルコールを作ったものでほぼ純粋のエチルアルコールです。無味無臭に近いものです。

 あとは精米の度合いが違います。米の中心部だけで作るほど味が良くなるものですから、最高級の50%以下にしたもので、米の半分以上を取り除くのです。精米するのも昔は、杵と臼で「米つきバッタ」と呼ばれる職人がせっせと精米しました。今は全て器械で何%と数字を入れれば、精米してしまいます。

 

 

⑤ 酒道 礼講と無礼講

   華道や茶道と共に大事なそして厳しい決まりがありましたが、飲み会の意味が変わると共に、厳しい儀式が失われてしまったのです。せっかく楽しく飲もうというのに、煩わしい儀式ばかりではおいしく酒が飲めなくなってしまうからです。

  元々が神と共に五穀豊穣や悪魔払いなどをしたり、武士の中では一族の団結や、友好・主従関係などを強めたりした儀式だったものです。その儀礼を間違えるようでは責任を取らされる羽目になります。貴族なら降位され、武士なら切腹ものなのです。それぐらい酒道の決まりは厳しかったのです。

  座る場所も主人が上座に座り、両側に二列で位の高い順に座り、まずは主人からの挨拶があり、宴会の目的などが話されます。そして、「巡り杯」が行われます。この巡り杯の間はしゃべったり、勝手に飲んだり席をうごいたりしてはいけないのです。

  巡り杯の始めは、大きな盃を出して、ナミナミト注いで、まず主人が一口のんで、上座から順に、一番下まで廻します。これを「御通し」と言います。一番下まで回ると、その大きな盃にまたナミナミト酒を注いで、今度は一番下座から主人の所まで順番に回します。これを「上がり杯」と言います。

  次には、前もって主人が指名しておいた「おあえ」と言う酒に強い者が、とっくりと小杯を持って、主人から下座まで一人ずつと一杯ずつ酒を酌み交わします。このあいだもその儀式を全員が見ていなくてはなりません。都合3回盃が回ると、これで礼講が終わったことになります。ここまでの儀式が終わると「無礼講」となって、おしゃべりしながら、席も移動して好きなだけ酒が飲めるのです。と言っても今と違って身分の序列があった時代では簡単に無礼講といっても、「無礼者メ!」で、はじかれてしまいます。

  なお、宴会に遅れていくと、「駆けつけ杯」と言って、3杯立て続けに飲まされますが、それはいじめではなく、この「礼講の3杯を飲んでから、無礼講で飲みなさい」と言う意味なのです。

  辞書を引いても、「無礼講」は出てきますが、「礼講」は出ていません。肝心の「酒道」の言葉の方が死語となってしまったのです。

  

⑥ 酒の注ぎ方・受け方

  酒を注ぐにはまず右手でとっくりのやや下を持って持ち運びます。(筆者は左利きなのでこの右手に持つことさえできません。たいてい途中で気づいて恥ずかしい思いをします。それで、いつも独酌ばかりになります。)注ぐ時には、こぼすといけませんので左手の人差し指を首のあたりに添えると安全です。盃とトックリとをぶっつけないように盃から離して差し出します。 

  注ぐ時は「鼠尾(そび)・馬尾(ばび)・鼠尾(そび)」と表現されるように、はじめは鼠の尻尾のように細く、中ほどは馬の尻尾の様に「ドクドク」と注ぎ、終り頃にはまた鼠の尻尾のようにそっと注ぎます。と言っても、皆さんは馬やネズミの尻尾が頭に入っていますか。どちらもあまり見なくなったように思いますが。そして注ぎ終わる時には、頭を上げるのではなくお尻を下げながら、右へ90度廻すとこぼすことなく注ぐことができるそうです。筆者にとってはそのような作法を右手で行うことはとても難しいことなのです。この注ぎ方が上手なのは結婚式場の巫女さん役の人です。

  注いでもらう人は盃を持ちます。下に置いた盃に注いではいけません。盃の持ち方が、公家流と武家流では全く違います。まずは公家流で、

 盃は右手に持ちます。人差し指と中指の間に糸底をはさみ、親指を飲み口にかけます。左手の人差指を添えれば落とすことはないでしょう。両手を添えて飲んで頭を下げます。

  これに対して武家流では、普通は左手に持ちます。酒を飲むときでも常に奇襲攻撃に備えなければなりません。右手はいつも開けておくのです。ちょこの糸底を中指と薬指の間に置き、親指と人差し指で飲み口を持ちます。4本の指でしっかりと握って、片手で注いでもらい、片手で飲むのです。飲み終わった後も、頭を下げないでちょこを相手側に突き出すようにして、頭が少し下がるようにするだけです。酒を受ける時の高さは膳の高さほどが良いそうですが、膳の前で酒を酌み交わす機会が少なくなっています。

 そして、「膳上御法度(ぜんじょうごはっと)」と言って、ごちそうの上で酒を注いでもらってはいけません。ごちそうは板前さんの神業によって作られた御馳走です。酒をこぼして味を損なっては申し訳ないですし、「神人供食文化」に反します。

  しかし、武家流であっても相手が特別偉い人の場合は、右手に持って公家流のようにしたそうです。

 

 

⑦ 式三献

  この言葉も死語になってしまいました。普通に使う「献」も聞かなくなりました。よみかたも「さんけん」ではなく「さんこん」です。三々九度の事です。昔は神様の前で約束したり、忠節を誓うのに行われた「神人供食文化」の一つです。

「三三九度と言えば、結婚式の時の杯を交わすことと分ると思います。今でこそ結婚式だけですが、昔は神様の前での酒はすべてこの儀式で行われたのです。元服式・命名式・叙位・叙勲などもありましたが、今では結婚式だけに残っているようです。

  三つ重ねの盃をそれぞれ三回ずつで飲んで、相手に渡して飲むと、これで「一献」です。それを三回繰り返して行くから三献となります。

 

⑧ 熱燗か冷酒か

  寒い冬の夜などは外から帰ってきたら、「熱燗をぐっと一杯」暑い酒が五臓六腑を駆け回り生き帰った気がします。また逆に、真夏の炎天下から帰宅した時には、冷蔵庫で凍ってしまいそうな冷酒をぐっと一杯。これ又たまらない美味しさです。

このように日本酒はおいしく飲むのに世界一幅広く、冷やした酒から暖かい酒まで飲むことができます。それ以外の酒では、簡単に温度を変えることができません。もっとも欧米の富豪が、冷暖房の完備した家にいては、ワインなど年がら年中同じ温度で飲めばうまいのでしょうが。

  次の表のように、日本酒は5℃から55℃まで幅広く飲むことができます。またその温度に合わせた「よび名」が素晴らしいです。「雪冷え・花冷え」あるいは「人肌」など、以下にも酒を飲みましょうと言う名前です。これらはもちろん飲む人の好みで飲めばよいのです。日本の四季の様に暑さ寒さが厳しい(すなわち四季がはっきりしている)土地では温度調節も必要です。

 

これらの温度はちゃんと科学的に分析されていて、次の表に見られるように甘味苦味などが変化するのです。飲む人の体調によっても当然美味い範囲が変わると思います。

 

 

⑨ 料理と日本酒の相性

 次の表のように、料理によっても酒の種類を変えるとおいしくいただけるのです。料理の温度や味の濃さなどと同じようにするだけの事ですので簡単にわかると思います。肉は赤ワインで、魚は白ワインと相性があると言われるのと同じようなものです。

 

 

⑩ 知多酒で乾杯を推進する条例

平成二十五年十月十一日

半田市条例第二十三号

(目的)

第一条 この条例は、知多地域の伝統産品である日本酒(以下「知多酒」という。)による乾杯の習慣を広めることにより、知多酒をはじめとする醸造品の普及並びに知多地域の食文化、醸造文化及び伝統文化への理解の推進に寄与することを目的とする。

(本市の役割)

第二条 市は、知多酒をはじめとする醸造品の普及の促進に必要な措置を講じるよう努めるものとする。

(事業者の役割)

第三条 知多酒を生産する市内事業者は、知多酒による乾杯の普及を促進するために主体的に取り組むとともに、知多地域の市町及び他の事業者と相互に協力するよう努めるものとする。

(市民の協力)

第四条 市民は、知多地域の市町及び事業者が行う知多酒による乾杯及び知多酒をはじめとする醸造品の普及の促進に関する取り組みに協力するよう努めるものとする。

附 則

この条例は、公布の日から施行する。

※ ビールで乾杯をしたからと言って、罰金を取られることはありません。皆さんで街の活性化に協力しましょう。

 

参考資料 中日新聞 時流の先へ 中部財界物語 醸造の里 知多

     朝日新聞 旅人海へ 赤レンガ建物

     半田市観光ガイド協会 講演「酒道を極める」の資料

 

半田市役所 半田市条例「知多酒で乾杯を推進する条例

潮干祭りは5月3.4日です。