小栗重吉

半田町史・旧半田市誌が見た「重吉の後半生」

① 小栗重吉の後半生

 重吉が半田に帰ってきて、どのような生活をしたか、半田町史と旧半田市誌とでは大きく食い違っています。半田町史では良いことが書かれていません。執筆した榊原駒太郎は重吉が死んだ前後(重吉の死亡年月も2通りある)に生まれています。駒太郎は直接に重吉を知らないけれど、周りの大人はみんな知っていた時代です。残念ながら重吉は半田地方では受け入れられていなかったようです。

 「唐人重吉」とか「大ほら吹き重吉」など、当時としては最高の差別用語です。かの「唐人お吉」と同じ扱いだったと思われます。彼女はハリスとわずかのあいだ接したために以後の人生を差別に苦しみ自殺しているのです。しかし彼女は昭和時代になって映画や歌謡曲で有名になり悲劇の主人公として名誉を挽回しました。しかし重吉は差別を受け続けたが負けずたくましく生きましたが、その名誉を挽回していないのです。いまだに悪く思っている人がいるのです。

 帰国後の重吉にとってさらなる不幸は半田地方には1人だけで帰ってきたのです。亀崎の半兵衛が死亡したことが不幸だったのです。せっかく伊豆の音吉が帰国できましたが、江戸で別れて伊豆へ返されます。伊豆は幕府領ですので、幕府の命令「異国のことはしゃべるな」は忠実に守られます。守らなければ大黒屋光大夫のように、幽閉されたかもしれません。重吉が訪れても誰が行っても会いませんし手紙のやり取りもしません。町史では何と死んだことになっています。

 尾張藩は重吉の偉大さがわかっていたから優遇し、心ある武士たちは何とか外国事情を知ろうと、話を聞いてくれましたが、田舎の庶民たちにとっては全くかかわりのないことでした。なぜ重吉が優遇されるのかわかりません。船長だけが帰国できて部下が一人も帰ってこないのでは重吉が何を言っても遺族たちは勘ぐってしまいます。6人もの遺族をはじめ庶民では重吉の話を確認する方法がなかったのです。それで、ついには「唐人重吉」のあだ名がつき、世間から見放されたのだと思われます。それで半田町史ではすべてを悪い方向に取ってしまったのでしょう。

 さらに悪いことに、笠寺に設置したはずの石碑がいつの間にか熱田の成福寺に移ってしまいました。もちろん常福寺としては悪げがあったわけでなく善意で移したのですが、今と違って、新聞もテレビもありません。後の研究者が石碑を探しても見つからず、嘘だったのではないかとか、自分で建てていないのではないかと憶測されたのでしょう。半田町史の内容はほとんどウソ・噂だと思います。旧半田市誌の内容が事実に近かったと思います。

 重吉はくじけずに頑張ったと思いますが、遺族・子孫は耐えられなかったのでしょう。重吉の墓も移動し、我が家は重吉とは関係ない家だと口を閉ざしてしまいました。遺族・子孫を探すのではなく、重吉をもっと顕彰して、資料館や石碑などを建てて半田地方のだれもが偉大な人・世界最長の漂流に耐え抜けた人と認識するようになれば、子孫の方も名乗りを上げてくると思います。そうなることを願っています。

 

 なお、重吉は督乗丸の「仮船頭」になっていますが、自動車運転の仮免許とは違います。沖船頭は雇われの身ですから、都合悪い船頭がいたら変わって乗っただけです。重吉はいつ船頭になったか記録はありませんが、船頭として何度も活躍していたことは間違いありません。遭難した時が船頭として初めてではないのです。

 重吉の名誉回復を

 前述のように、重吉は武士仲間からは偉大なる指導者として認められ、池田寛親の「船長日記」などもだんだんに読まれだして、少しずつ認められましたが、肝心の半田地方では、「唐人重吉」の名と共に、さげすまれ非難され続けてきました。重吉は強い男でしたので、それらの非難差別にも負けずに、生き続けられました。

しかし、家族・子孫にとっては耐えられなかったのでしょう。いまだにその御子孫は重吉の子孫とは名乗り出ません。それはまだ半田地区で「重吉」が、みんなに認められていたいからです。半田市内など多くの所に石碑などを設立し、あるいは、「名誉市民」などの称号を与えるなどして広く検証する必要があるのです。

なぜ、「唐人重吉」とさげすまされたかは、残念ながら半田地区へは重吉だけが生きて帰ってきたからです。生きて帰ってきたもうひとりの「音吉」は伊豆の出身で、伊豆は当時幕府直轄領でした。音吉は幕府の命令「外国で見てきたことはだれにもしゃべるな、語るな」を忠実に守らなければなりませんでしたし、彼はそれを生涯守り続けたのです。

重吉がいかに素晴らしい指導者で、生命力の強い人であったかは尾張藩や武士たちはその記録を見ることができて、知っていました。しかし、半田地区の庶民はそれを知ることができなかったのです。1度でよいから音吉が来て、重吉の偉大さを語っていたら違ったことになったでしょう・

海で死んだ水主の遺族たちは「なぜ船長が一人だけ変えてきたか。何か特別自分だけうまくやったのでは」、「なぜ、そのような人が一人だけ武士に取りたてられたのか」噂はうわさを呼び、大正時代になってもまだ「唐人重吉」とさげすさまれ続けていたのです。

「唐人お吉(さいとうきち)」も唐人と呼ばれ、差別に苦しみ、死亡しましたが、昭和になって、映画や歌謡曲などで、「悲運な女性」として有名になり、石碑などもできて名誉を回復しました。

しかし、「唐人重吉」はまだ名誉を回復できていないのです。佐久島や新城には石碑などもできていますが、肝心の半田では一部の人によってプレート板ができただけです。まだ重吉は名誉を回復していないのです。差別した人々の子孫はそのいじめを忘れてしまっていますが、差別された方の子孫はその苦悩を覚えているのです。子孫がどこに住んでいるか探し回るより、子孫が「我が家が重吉の家です」と、名乗って出られるような雰囲気ができなければいけないのです。

その様な世の中となれるようには皆さんの努力が必要なのです。1913(大正2)年は督乗丸遭難百年です。しかし日本中どこでも記念式典は行われませんでした。2013年は徳陽丸遭難の2百年記念です。新城市・西尾市佐久島では記念式典が行われ、半田市では有志で式典を行いました。半田市にとっては重吉より新美南吉生誕百年の記念式典が盛大に行われました。

2113年の300年記念式典こそは日本中で、世界中でその偉業がたたえられるようになってほしいものです。そのための一歩を始めたいものです。

 

1815324日に、イギリス船フォレスタ号に救助された記念すべき日から、199年目の記念すべき日に記す(筆者市野忠士)